手を、つないで


 歩き出す。
 エレベーターの時と同じ、やわらかいあたたかい空気が流れてる。
 何か喋らなきゃ、と思わなくていい。お互いに。
 こんなの、初めてだ。
 2つ目の信号が赤で止まる。
 彼が何かを言いたそうに口を開く。
 なんだろ。じっと待っていると、彼は口元を手で押さえた。
 信号が青になる。
 彼が歩き出したので、私もついていく。
 信号を渡り切ったところで、彼がまた口を開いた。今度は声が出る。
「あの……前に」
 そのまま、沈黙。
 前に?なんだろう。
 その先を早く知りたいと思いつつ、待つ。
 彼は、緊張してるみたいに、ぎこちなく口を開いた。
「前に、もらった、チョコ……コーヒーの」
 チョコ?あの時の?彼にチョコをあげたのは、あの1回きりだ。
「おいしかったです」
 え、食べてくれたんだ。
 あの後、彼は甘い物は苦手だという噂を聞いた。だから、食べてないんじゃないかと思ってたのに。
「ありがとう、ございました。……あの時、いろいろ重なってて、キレそうだったんで……凄く助かりました」
 ぺこっと頭を下げる。その仕草が可愛く見える。
 嬉しくて、顔が笑ってしまう。
「お役に立てて、良かったです」
 良かった。余計なことをしたんじゃないかと思ってたから。
「あ……」
 彼は、更に何かを言いたそうに口を開いた。
 でも、また口に手をあててふさいでしまう。
「あの……」
 言葉を選んでいるんだろう。私も同じことをするからわかる。こういう時は待つしかない。
 渡って来た信号が変わりそうになる。
 と、私の後方に目をやった彼が、こちらに手を伸ばした。
 え?と思う間もなく肩を抱かれて引っ張られる。
 シュンっと、私のいた場所を自転車が猛スピードで走って行った。
「……危ね……」
 また、頭の上で声が聞こえる。体が触れているせいか、やけに心地良く響く。
 あれ、これは、夕方の給湯スペースと同じでは?
 私、また助けられて、抱き止められてる。
「あ、あの、ありがとうございました」
 言って、離れようとしたら、動けなかった。
 彼の腕に力が込められている。まるで、抱きしめられてるみたいに。
 頭の中が真っ白になる。体の方は全身が心臓になったみたいにバクバクしている。
 それはほんの少しの間のことで、すぐに腕の力は緩められた。
 顔が熱い。多分真っ赤になってる。
 見られたくなくて、俯く。
「あ……すみません、咄嗟に」
 まだ彼の声は頭の上の範囲だ。
「いえ、1日に2回も助けていただいて、こちらこそご迷惑をおかけして……」
「迷惑ではないです」
 きっぱりと、頭の上から聞こえた。
「全然迷惑じゃないし、むしろ嬉しいっていうか、もっとしてもらってもいいっていうか、あの……」
 きっぱりから、段々ごにょごにょになっていく。
 見上げると、赤くなった彼の顔。目が合うと、ますます赤くなって、彼は目をそらして、口に手をあてて、更にごにょごにょになる。
 『迷惑じゃない』って……『むしろ嬉しい』って……『もっとしてもらってもいい』って……。
 初めて見る彼の表情に、釘付けになる。
 私の視線を感じたのか、彼の顔が更に赤くなった。
「その……打ち上げ、行くんですか……」
 ……え?
「打ち上げ……?」
 え、何の話?
「さっき、高井戸が言ってた」
 ああ、来週末の。
「多分、行くと思います。今のところ予定はないので」
 打ち上げ、が、なにかあるんだろうか。
 そう思っていたら、彼がごにょごにょ言う。
「……行かせたくないって……言ったら、困ります、よね……」
 ……ん?
「いや、あの、仕事の内だし、行かないといけないっていうのはわかってるんですけど、その、気持ちだけなら行ってほしくないっていうか……」
 彼が何を言っているのか、さっきの言葉と合わさって、段々わかってくる。
 わかってくるけど……本当かな。私に都合がいいようにしか聞こえないんだけど。
「……すみません、何言ってんだかって感じですよね」
 彼が口から手を外した。見えたのは、緊張してる表情。
 つられて私も緊張する。姿勢まで正してしまった。
「中森さん」
 さっきまでのごにょごにょとは違う、はっきりした口調。まっすぐな瞳。
「……好きです」
 その瞳に吸い込まれるかと思った。




< 9 / 31 >

この作品をシェア

pagetop