夜明けが世界を染めるころ
扉の向こうが、ざわめいている。
人の気配と、抑えきれない期待と緊張。

その手前の控えの間は、不思議なほど静かだった。

「……緊張してる?」

振り返ると、ディランがそこにいた。
人前で見せる表情とは違う、少しだけ柔らかい顔。

「少しだけ」
正直に答える。
「でも、不思議と怖くはありません」

「それはよかった」

ディランはそう言って、私の隣に立つ。
距離は近いのに、触れない。
いつも通りの、逃げ道を残す距離。

(……やっぱり)

この人は、最後までそうする。

「今なら、まだ引き返せる」
ディランは視線を前に向けたまま言った。
「扉が開く前なら、誰にも責められない」

分かっていた。
きっと、そう言うだろうと。

「……ディラン」

私は、一歩だけ近づく。

「さすがに、しつこいですよ」
小さく息を吐く。
「私はもう、ここにいます」

殿下が、ほんのわずかに目を見開いた。

「婚約者という立場も。
その先で、私が手放される可能性も」

言葉を選ばず、はっきりと続ける。

「全部、分かった上でです」

沈黙。

ディランは、しばらく何も言わなかった。

「……君は、本当に」

言葉を探すように、息を吐く。

「私のことをよくみてるね」

「結果と行動を、見ています」
私は答えた。
「肩書きや噂ではなく」

ディランの表情が、少しだけ崩れた。

「それが、一番欲しかった評価だ」

低く、正直な声。

「……だから、怖い」

その一言に、胸がきゅっと痛んだ。

「それでも」

私は指輪に視線を落とし、もう一度顔を上げる。

「ディランがどんな選択をしても、私は逃げません」


「――逃がすつもりだった」

ディランは、苦笑する。

「君だけは、守りたかった」

「知っています」

私は、静かに頷いた。

「それでも、隣に立つと決めました」

殿下は、ゆっくりと私を見る。

「……もう、逃げ道はないね」
一拍置いて、微かに笑う。
「まあ、もう逃すつもりもないけれど」

「はい」

小さく微笑んで、答える。

「一緒に、進みましょう」

扉の向こうで、名を呼ぶ声がした。

ディランは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。

そして、手を差し出した。

「――行こう」

その手を、私は迷いなく取った。
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