月下櫻涙 ― 花に散り、月に生きて ―
第一章 元禄宵花火
元禄十年、夏の夜――。
川面に湿り気を含んだ風が渡り、江戸の町は宵から浮き立っていた。
両岸には屋台が連なり、灯籠の火が水に揺れる。
甘酒の匂いと焼けた団子の香ばしさ、人いきれに混じる川の冷気が、宵闇を騒がしく満たしながら、同時にどこか浮世離れした気配を漂わせている。
ふと、賑わいの底に流れていた音が途切れ、川沿いの喧騒が理由もなくわずかに沈む中、人々は示し合わせたように言葉を止め、誰からともなく空を見上げる。
その沈黙を破るように、夜空に最初の花火が咲いた瞬間、群衆がどよめいた。
火の華は一瞬で広がり、砕け、跡形もなく消える。
それでも人々は目を離さない。
消えると知っているからこそ、誰もが無意識に見上げてしまうのだ。
その喧騒の中心に、仮設の舞台があった。
板敷きの上、白布を背に立つ一人の女――桜。
薄紅の衣は灯に照らされ、風にわずかに揺れ、その姿だけが夜の闇から切り取られたようだった。
闇は彼女を拒むかのようでありながら、同時に抱き寄せるかのようでもある。
笛の音が立つ。
桜は一歩、前へ出た。
指先から動きが始まり、それは誰かに教えられた型でありながら、どこか人の世のものではなかった。
腕を上げるたび、衣の奥に隠されたものが、見えてはならぬと訴えるように揺れる。
観る者は思わず息を詰める。
美しいという言葉では足りず、祝福されぬ美――そうとしか言いようのない違和感が、静かに胸の奥へと残った。
花火が夜空に重なり、光が散って舞台が白く染まる。
その一瞬、桜の背に浮かび上がる“痕”を、誰かが見た気がした。
「……今の、見えたか」
「何がだ」
「いや。気のせいか」
ざわめきは風に溶け、すぐに次の花火の音へと呑まれていく。
桜の胸は、わずかに早まった。
――見られたかもしれない。
その感覚だけが、肌に残る。
桜は舞い続ける。
視線を伏せ、誰のものでもない場所を見つめながら。
――そのときだった。
舞台の下、群衆の端。
人の流れからわずかに離れた場所に、一人の男が立っていた。
姿勢は一分の乱れもなく、喧騒の中にありながら、そこだけ音が遠い。
身なりは控えめだが、目だけが異様に澄み、測るようでもあり、祈るようでもある視線を向けている。
桜は、なぜかその視線を感じ取った。
顔を上げるつもりはなかった。
上げてはならないと、どこかで知っていた。
それでも――。
視線が、合った。
息がひとつ遅れる。
逸らせば戻れると分かっていながら、逸らせば何かを失うと、身体が先に知っていた。
花火が弾け、音が遅れて届く。
人々の歓声が重なり、そのすべてが遠ざかる中で、桜の意識には、その男の目だけが残った。
名も知らぬ相手。
声も知らぬ相手。
それでも、覚えられてしまったと、確かに感じる。
やがて桜は舞を終え、深く一礼すると、そのまま舞台袖へと下がった。
顔を伏せたまま、胸の奥に生じた熱を押し殺す。
振り返ってはならない。
振り返れば、今夜という夜が、ただの一夜では終わらなくなる。
それでも彼女は知っていた。
この夜が、花火のように消えるものではないことを。
川面には、まだ光の名残が揺れている。
そして江戸の空の下、誰にも祝福されぬ恋が、静かに始まろうとしていた。
川面に湿り気を含んだ風が渡り、江戸の町は宵から浮き立っていた。
両岸には屋台が連なり、灯籠の火が水に揺れる。
甘酒の匂いと焼けた団子の香ばしさ、人いきれに混じる川の冷気が、宵闇を騒がしく満たしながら、同時にどこか浮世離れした気配を漂わせている。
ふと、賑わいの底に流れていた音が途切れ、川沿いの喧騒が理由もなくわずかに沈む中、人々は示し合わせたように言葉を止め、誰からともなく空を見上げる。
その沈黙を破るように、夜空に最初の花火が咲いた瞬間、群衆がどよめいた。
火の華は一瞬で広がり、砕け、跡形もなく消える。
それでも人々は目を離さない。
消えると知っているからこそ、誰もが無意識に見上げてしまうのだ。
その喧騒の中心に、仮設の舞台があった。
板敷きの上、白布を背に立つ一人の女――桜。
薄紅の衣は灯に照らされ、風にわずかに揺れ、その姿だけが夜の闇から切り取られたようだった。
闇は彼女を拒むかのようでありながら、同時に抱き寄せるかのようでもある。
笛の音が立つ。
桜は一歩、前へ出た。
指先から動きが始まり、それは誰かに教えられた型でありながら、どこか人の世のものではなかった。
腕を上げるたび、衣の奥に隠されたものが、見えてはならぬと訴えるように揺れる。
観る者は思わず息を詰める。
美しいという言葉では足りず、祝福されぬ美――そうとしか言いようのない違和感が、静かに胸の奥へと残った。
花火が夜空に重なり、光が散って舞台が白く染まる。
その一瞬、桜の背に浮かび上がる“痕”を、誰かが見た気がした。
「……今の、見えたか」
「何がだ」
「いや。気のせいか」
ざわめきは風に溶け、すぐに次の花火の音へと呑まれていく。
桜の胸は、わずかに早まった。
――見られたかもしれない。
その感覚だけが、肌に残る。
桜は舞い続ける。
視線を伏せ、誰のものでもない場所を見つめながら。
――そのときだった。
舞台の下、群衆の端。
人の流れからわずかに離れた場所に、一人の男が立っていた。
姿勢は一分の乱れもなく、喧騒の中にありながら、そこだけ音が遠い。
身なりは控えめだが、目だけが異様に澄み、測るようでもあり、祈るようでもある視線を向けている。
桜は、なぜかその視線を感じ取った。
顔を上げるつもりはなかった。
上げてはならないと、どこかで知っていた。
それでも――。
視線が、合った。
息がひとつ遅れる。
逸らせば戻れると分かっていながら、逸らせば何かを失うと、身体が先に知っていた。
花火が弾け、音が遅れて届く。
人々の歓声が重なり、そのすべてが遠ざかる中で、桜の意識には、その男の目だけが残った。
名も知らぬ相手。
声も知らぬ相手。
それでも、覚えられてしまったと、確かに感じる。
やがて桜は舞を終え、深く一礼すると、そのまま舞台袖へと下がった。
顔を伏せたまま、胸の奥に生じた熱を押し殺す。
振り返ってはならない。
振り返れば、今夜という夜が、ただの一夜では終わらなくなる。
それでも彼女は知っていた。
この夜が、花火のように消えるものではないことを。
川面には、まだ光の名残が揺れている。
そして江戸の空の下、誰にも祝福されぬ恋が、静かに始まろうとしていた。