月下櫻涙 ― 花に散り、月に生きて ―
第二章 遡る月

一.時代の継ぎ目

――時は遡る。

延宝八年夏。
八月八日――。

江戸城本丸御殿の奥深く、将軍の寝所には、盛夏とは思えぬ冷えた空気が澱のように溜まっていた。

外では朝日が白砂を照らし、蝉がけたたましく鳴き始めているというのに、分厚い障子と几帳に囲まれたその一室だけは、まるで時の流れから切り離されたかのように静まり返っている。

蝋燭の炎が、ほのかに揺れていた。

その淡い光に照らされ、畳の中央に敷かれた絹の夜具の上で、一人の男が浅く、途切れがちな呼吸を繰り返していた。

徳川家四代将軍――徳川家綱。

幼くして将軍の座に就き、三十余年にわたり、江戸の泰平を支え続けてきた男である。

戦を知らぬ世を守り、武断から文治へと時代を移し、学問と秩序によって幕府を支えたその人は、今、四十年の生涯の終わりに立っていた。

枕元に控える奥医師が、震える指で家綱の脈を探る。

だが、その鼓動は糸のように細く、指先に触れたかと思えば、すぐに霧のように消えていった。

「……殿」

かすれた声で呼びかけても、返事はない。

家綱の顔色は血の気を失い、唇は紫に変わり、額には冷たい汗が滲んでいた。

わずかに開いた口から漏れる息は乾き、砂を吹くように頼りない。

女中たちは声を殺し、ただ涙を流していた。

女中頭は主君の手を包み込み、必死に祈るように額を擦りつける。

しかし、その手はすでに氷のように冷たく、人の温もりを感じさせなかった。

やがて――。

巳の刻。

奥医師の手が、そっと脈から離れた。

誰も何も言わなかった。
言葉を発する必要がなかったからだ。

蝋燭の炎が揺れ、静寂だけが部屋を満たしている。

その沈黙こそが、将軍の死を告げていた。

襖の外で控えていた大老・酒井忠清が、静かに一歩踏み出す。

寝所の光景を一瞥し、深く頭を垂れた。

「――将軍家綱公、お隠れにあらせられた」

その一言に、廊下に控えていた重臣たちは一斉に平伏した。

畳に額を打ちつける鈍い音が重なり、御殿全体が深く沈み込んだかのように響いた。

だが、この死は、まだ世に知られてはならない。

将軍の死は、幕府の根幹を揺るがす大事である。

次代が定まるまでは、城内も、城下も、「将軍健在」のまま時を刻まねばならなかった。

――その頃、江戸の町は何事もなかったかのように動いていた。

魚河岸では威勢のよい呼び声が飛び交い、桶の中で鯛の鱗が朝日にきらめく。

豆腐売りが鐘を鳴らし、茶店では団子を焼く香ばしい匂いが漂っていた。

子どもたちは笑い声を上げて走り回り、町人たちは帳場で算盤を弾いている。

誰ひとり、この瞬間、天下の歯車が軋み始めたことを知らない。

――城の奥の深い闇と、城下を包む無邪気な光。

二つの世界が、同時に存在していた。



家綱の死から数日後。

江戸城評定所には、張り詰めた空気が満ちていた。

上座には大老・酒井忠清が座し、その左右に老中、若年寄、譜代の重臣たちが正座して並ぶ。

誰もが口を閉ざし、互いの表情を探るように視線だけを動かしていた。

「家綱公には、御嫡男がない」

忠清の低い声が、沈黙を切り裂いた。

皆が知っている事実でありながら、その言葉が改めて告げられると、評定所の空気は一段と重くなる。

徳川宗家、直系継承の断絶――それが意味するものの大きさを、ここに集う者すべてが理解していた。

老中の一人が、慎重に口を開く。

「家光公の血筋を辿れば、次は次男・綱重公……」

「……その綱重公は、すでに延宝六年に薨去」

言葉が途切れ、沈黙が落ちる。

もし綱重が生きていれば、後継問題は容易であった。

しかし、その道は閉ざされている。

「となれば――」

誰かが呟くように言い、視線が一斉に集まる。

「家光公三男、館林藩主……綱吉公」

その名が出た瞬間、わずかなどよめきが走った。

学問を好み、温厚と評される男。文治を重んじるその気質が、果たして将軍としてふさわしいのか。

誰もが胸中で計りかねていた。

だが、他に道はない。

「……異議はございませぬな」

忠清の問いかけに、誰も即座に答えなかった。

しばしの沈黙の後、一人、また一人と頷きが重なっていく。

「異議なし」
「御意」

こうして幕府は、徳川綱吉を次代将軍として推戴することを決した。

――この選択が、やがて天下を揺るがすことになるとは、誰も予見していなかった。



延宝八年八月二十三日。

朝廷より正式に将軍宣下が下り、徳川綱吉は第五代将軍の座に就いた。

厳かな儀式が滞りなく進み、御殿に集った重臣たちは一斉に平伏する。

その日の夕刻。

儀式を終えた綱吉は、従者を伴わず、一人で大奥へと続く長い廊下を歩いていた。

檜張りの床に、白足袋の音が静かに吸い込まれていく。

障子越しの夕暮れの光が、綱吉の影を細長く伸ばして揺らしていた。

やがて立ち止まり、障子を少し開けて外を見やる。

眼下には広大な庭園と、その向こうに果てしなく続く江戸の町並み。

屋根の隙間から夕餉の煙が立ち昇り、遠くで三味線の音がかすかに聞こえてくる。

――百万人の命。

武士も、町人も、商人も、子どもも。
それぞれに日々の暮らしがあり、喜びがあり、苦悩がある。
そのすべてを背負うのが、将軍という存在なのだ。

ふと、庭の池のほとりで白鷺が羽を休めているのが目に入った。

さらにその近くでは、城内で飼われる犬が子犬と戯れ、甲高い声を上げている。

その光景に、綱吉は一瞬、微笑んだ。

だがすぐに、表情を引き締める。

――人も、鳥も、獣も。
この世に生を受けた命は、等しく儚い。

兄・家綱の姿が脳裏をよぎる。

幼くして将軍となり、三十六年、戦なき世を守り抜いた兄。

その背中は、常に綱吉の前に大きな壁として立ちはだかっていた。

「兄上が残されたこの国を……」

言葉は風に溶け、誰の耳にも届かない。

それでも、その誓いは確かに胸に刻まれた。

夕闇が江戸を包み始める中、新たな将軍の胸に芽生えた思いは、やがて時代そのものを揺るがす種となって、静かに息づいていた。

――それが慈悲となるか、災いとなるかを、この時、知る者はまだ、誰ひとりいなかった。
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