浦和探偵事務所帖 ぱぁとちゅ♡ 萬屋マイク
レディ・シスター・ベイビー 上巻
人は、怪我をすると静かになる。
正確には、静かにならざるを得なくなる。
骨が折れるというのは、音のする出来事だ。
だが、そのあとの時間は妙に無音が続く。
身体を動かすたびに、どこかで何かが引っかかる。
考える速度も、歩く速度も、いやおうなく落ちる。
俺が入っていたのは、古いが掃除がいきとどいた総合病院だった。
廊下は長く、昼でも夜でもどこか薄暗い。
怪我人と病人と、そのどちらでもない付き添いが、同じ速度で行き交う場所だ。
俺は相談を受けた女をかばって、転んだだけさ。
よくある話だ。派手じゃない。
ただ、間に入った人間が、骨をやった。それだけだ。
松雪と出会ったのは、その病棟だった。
最初に気づいたのは、声だった。
よく通る声だが、張り上げる種類の声じゃない。
誰かに甘えるための声でもない。
要件を済ませるための、短くて迷いのない声だった。
看護師と必要な言葉だけを交わし、書類を受け取り、頷く。
動きに無駄がない。感情を挟まない手つきだ。
その隣に、年配の女性がいた。
松雪の母親だった。
同室だった。
共通点は、骨折しているという一点だけ。
理由も経緯も違う。
俺は、他人事に首を突っ込んだ結果。
母親は、自宅の階段。
だが、病室ではそういう違いは意味を持たない。
どちらも「回復する予定の人間」という括りで、同じようにベッドに並ぶ。
松雪は、毎日来ていた。
来て、やることをやり、帰る。
見舞いというより、業務に近い。
洗濯物を回収し、医師の説明を聞き、必要なものをメモする。
感情を挟まない。
強い人間だと、誰もが思うだろう。
俺もそう思った。
話すようになったのは、廊下の自販機の前で、偶然並んだ。
俺は缶コーヒーを選び、彼女は水のボタンを押した。
「毎日来てるな。大変だろ」
「ええ」
それだけだった。
余計な説明はなかった。
その翌日も、その次の日も、顔を合わせる。
挨拶が増え、言葉が一つ増え、二つ増える。
俺が先に退院した。
松雪の母親は、もう少しかかると言っていた。
骨折は治る。
時間をかければ、元に戻る。
誰もが、そう信じている。
退院してから、しばらくして、松雪が事務所に来た。
名刺を渡した覚えはない。
病院のどこかで、俺が探偵だと知ったのだろう。
彼女は、理由を多く語らなかった。
ただ、「話がしたい」と言った。
最初の相談は、曖昧だった。
恋人の話。優しい人だという。
感じがよく、嘘はつかない。怒鳴らない。
ただ、決まった話題になると、消える。
指輪の約束。親。将来。
「強いから、大丈夫だと思って」
彼は、そう言うらしい。
松雪は、その言葉を否定しなかった。
否定しない代わりに、受け取ってしまう。
それが、彼女の癖だった。
彼の名前が、頭に残った。
……スマイルさんな。
それから、松雪は何度も来た。
週に一度のときもあれば、三日続くこともあった。
話す内容は、彼の不在。我慢と沈黙。
「考えすぎ」と彼に言われたこと。
俺は、正解を言わない。
探偵は、答えを出す仕事じゃない。
見失わないようにする仕事だ。
ある日、松雪の母親が退院した。
それから、数か月後。
再入院。
今度は、骨じゃなかった。
進行は早かった。
説明は淡々としていて、選択肢は少なかった。
あっという間だった。
葬儀の日、彼は来なかった。
連絡もなかった。
その話を聞いたとき、俺は煙草に火を点けずにくわえたまま考えにふけった。
間を置いて、言った。
「なあ。
身内の不幸に来られねぇやつってのは、
どうなんだ」
責める口調じゃない。確認しただけ。
松雪は、答えなかった。
ただ、視線を落とした。
四十九日まで、彼は現れなかった。
松雪は考えを整理するためか、事務所に来て、同じ話を何度も自分から問い直しをしているようだった。
俺は、同じところで頷いた。
ある日、こう言った。
「楽だったろ。
決めなくていい関係は」
彼女は、少しだけ笑った。
「……楽でした」
「だろうな」
俺は続けた。
「でもな。
誰かの都合で生きるってのは、
考えなくていい代わりに、
自分の人生を預けるってことだ」
沈黙が落ちた。
「それでもいいなら、続けりゃいい。
ただ、それはもう、
自分の人生じゃねぇ」
松雪は、泣かなかった。
強いからじゃない。
耐えてきた自分との対話をし始めたからだ。
考えるというのは、苦しい。
だが、止まるよりはいい。
彼女は、まだ別れない。
別れる準備もしていない。それでいい。
もう我慢をするだけの自分には戻れない。
それだけで、十分だ。
俺はくわえていた煙草に火をつけた、窓を開けた。
外は静かだった。
正確には、静かにならざるを得なくなる。
骨が折れるというのは、音のする出来事だ。
だが、そのあとの時間は妙に無音が続く。
身体を動かすたびに、どこかで何かが引っかかる。
考える速度も、歩く速度も、いやおうなく落ちる。
俺が入っていたのは、古いが掃除がいきとどいた総合病院だった。
廊下は長く、昼でも夜でもどこか薄暗い。
怪我人と病人と、そのどちらでもない付き添いが、同じ速度で行き交う場所だ。
俺は相談を受けた女をかばって、転んだだけさ。
よくある話だ。派手じゃない。
ただ、間に入った人間が、骨をやった。それだけだ。
松雪と出会ったのは、その病棟だった。
最初に気づいたのは、声だった。
よく通る声だが、張り上げる種類の声じゃない。
誰かに甘えるための声でもない。
要件を済ませるための、短くて迷いのない声だった。
看護師と必要な言葉だけを交わし、書類を受け取り、頷く。
動きに無駄がない。感情を挟まない手つきだ。
その隣に、年配の女性がいた。
松雪の母親だった。
同室だった。
共通点は、骨折しているという一点だけ。
理由も経緯も違う。
俺は、他人事に首を突っ込んだ結果。
母親は、自宅の階段。
だが、病室ではそういう違いは意味を持たない。
どちらも「回復する予定の人間」という括りで、同じようにベッドに並ぶ。
松雪は、毎日来ていた。
来て、やることをやり、帰る。
見舞いというより、業務に近い。
洗濯物を回収し、医師の説明を聞き、必要なものをメモする。
感情を挟まない。
強い人間だと、誰もが思うだろう。
俺もそう思った。
話すようになったのは、廊下の自販機の前で、偶然並んだ。
俺は缶コーヒーを選び、彼女は水のボタンを押した。
「毎日来てるな。大変だろ」
「ええ」
それだけだった。
余計な説明はなかった。
その翌日も、その次の日も、顔を合わせる。
挨拶が増え、言葉が一つ増え、二つ増える。
俺が先に退院した。
松雪の母親は、もう少しかかると言っていた。
骨折は治る。
時間をかければ、元に戻る。
誰もが、そう信じている。
退院してから、しばらくして、松雪が事務所に来た。
名刺を渡した覚えはない。
病院のどこかで、俺が探偵だと知ったのだろう。
彼女は、理由を多く語らなかった。
ただ、「話がしたい」と言った。
最初の相談は、曖昧だった。
恋人の話。優しい人だという。
感じがよく、嘘はつかない。怒鳴らない。
ただ、決まった話題になると、消える。
指輪の約束。親。将来。
「強いから、大丈夫だと思って」
彼は、そう言うらしい。
松雪は、その言葉を否定しなかった。
否定しない代わりに、受け取ってしまう。
それが、彼女の癖だった。
彼の名前が、頭に残った。
……スマイルさんな。
それから、松雪は何度も来た。
週に一度のときもあれば、三日続くこともあった。
話す内容は、彼の不在。我慢と沈黙。
「考えすぎ」と彼に言われたこと。
俺は、正解を言わない。
探偵は、答えを出す仕事じゃない。
見失わないようにする仕事だ。
ある日、松雪の母親が退院した。
それから、数か月後。
再入院。
今度は、骨じゃなかった。
進行は早かった。
説明は淡々としていて、選択肢は少なかった。
あっという間だった。
葬儀の日、彼は来なかった。
連絡もなかった。
その話を聞いたとき、俺は煙草に火を点けずにくわえたまま考えにふけった。
間を置いて、言った。
「なあ。
身内の不幸に来られねぇやつってのは、
どうなんだ」
責める口調じゃない。確認しただけ。
松雪は、答えなかった。
ただ、視線を落とした。
四十九日まで、彼は現れなかった。
松雪は考えを整理するためか、事務所に来て、同じ話を何度も自分から問い直しをしているようだった。
俺は、同じところで頷いた。
ある日、こう言った。
「楽だったろ。
決めなくていい関係は」
彼女は、少しだけ笑った。
「……楽でした」
「だろうな」
俺は続けた。
「でもな。
誰かの都合で生きるってのは、
考えなくていい代わりに、
自分の人生を預けるってことだ」
沈黙が落ちた。
「それでもいいなら、続けりゃいい。
ただ、それはもう、
自分の人生じゃねぇ」
松雪は、泣かなかった。
強いからじゃない。
耐えてきた自分との対話をし始めたからだ。
考えるというのは、苦しい。
だが、止まるよりはいい。
彼女は、まだ別れない。
別れる準備もしていない。それでいい。
もう我慢をするだけの自分には戻れない。
それだけで、十分だ。
俺はくわえていた煙草に火をつけた、窓を開けた。
外は静かだった。