スケッチブック
【藍色】

――雪

「完成したら、見せてよ」
あんなに軽い調子で言ったのに、自分の耳の奥でその言葉がずっとリフレップ
(反芻)している。
言われた芽衣子も何で?って顔していた。
そりゃそうだよな…
彼女と俺には接点らしい接点がないのだから。
はぁ…
体育館から部室へ戻る足取りは、いつになく重かった。

「雪さん、今日どうしたんすか?なんかボーっとしてません?」
後輩に茶化されて、「そうか?」と生返事で返す。

本当は、心臓がうるさかった。
廊下で目が合った瞬間、芽衣子の瞳が揺れたのを見た。
彼女が抱え込んでいたスケッチブック。その中に、俺の知らない彼女の「色」が詰まっている。
見せてほしいと言ったのは、本音だ。
でも、もしそこに描かれているのが俺じゃなかったら?
あるいは、俺に向けられた色が、ただの「クラスメイト」としての冷めた色だったら?
――怖いと思っている自分に、驚いた。

夜。暗い自室で、俺はベッドに寝転んでスマホを掲げる。
部屋の隅、カーテンの隙間から見える夜空は、深い藍色をしていた。
イヤホンを差し込み、いつもの配信を開く。

「こんばんは、作楪です。……あはは、今日のゲームも散々だね。でもさ、負けの中にしか見つからない宝物もあるんだよ」
作楪の笑い声が、藍色の闇に溶けていく。

俺は思わず、初めてチャット欄に文字を打ち込もうとして、指を止めた。
『気になる人が、何を考えているか知るのが怖い』
そんな女々しい言葉、俺らしくない。
誰にでも優しく、誰とでも上手くやってきたはずの「雪」じゃないみたいだ。

「藍色ってね、強くて深い色だけど、実は一番、光を欲しがっている色なんだよ」
作楪が、画面の向こうでふっと呟いた。

まるで俺の部屋の空気を見透かしたような言葉に、息が詰まる。

俺は、彼女に「優しい人」だと思われたいわけじゃない。
そんな立ち位置で終わりたくなかった。
あの日、消しゴムを届けたとき。
そして今日、廊下で名前を呼んだとき。
俺が欲しかったのは、彼女が他の誰にも見せない、スケッチブックに向けられた、あの真剣な眼差し。
俺だけを見つめてくれる瞬間だったんだ。

藍色の夜が静かに更けていく。

明日、教室で彼女に会ったら、俺はどんな顔をすればいい?
「見せてよ」なんて、あんなに踏み込んだことを言って。
彼女のスケッチブックに、俺が入る隙間は……本当にあるんだろうか。

俺はスマホを消して、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏には、夕焼けの廊下で立ち尽くす、小さな彼女の背中が焼き付いて離れなかった。
< 6 / 29 >

この作品をシェア

pagetop