終電で帰らないで、そばにいて
終業間際に呼び止められた瞬間、今から何を言われるのか察した。
「彩葉、美羽、悪いんだけど、急遽合コンに誘われてさ。二人でイベントの準備、進めてくれない?」
先輩ネイリストの鹿乃は、まるで悪びれる様子も見せずに言った。
イベント近くになって慌てずに済むよう、いつもより早く準備に取り掛かろうと提案した張本人だ。
同期の美羽と私は、全く同じ表情で固まっていたと思う。
『またか……』
心の声が漏れなかったのを誰か褒めて欲しいものだ。
鹿乃は年齢で言えば二歳しか違わないのだけれど、ネイリストになった年齢が私よりも早く、今は副店長を任されている。店長である佐伯は店長業務が忙しいゆえ、鹿乃にスタッフの教育などを任せていて、それをいいことにやりたい放題。その理由の殆どは自分が合コンに行くための穴埋めで、常に私と美羽がターゲットだった。
閉店後、さっさと帰ってしまった鹿乃の背中を見送ると、美羽は怪訝な表情を剥き出しにした。
「最初からそのつもりだったよね? 今日、鹿乃先輩を合コンに誘う顧客様なんて来てなかったじゃん」
「そうだけど、メッセージが届いてたとか、なんとでも言えるよ」
「っていうか、あれだけ合コン行っても彼氏が出来ないなんて余程じゃない? 彩葉ちゃん知ってる? 鹿乃先輩、クリスマスにクルージングパーティー行ってたってやつ、嘘だよ」
「そうなの!?」
「そうそう。あれ、滝川さんが行ってた写真を私たちに見せてただけ。得意のマウント用SNSアカウントには投稿してない」
「気付かなかった……」
だってクリスマスも私は残業をしていたから。
思い返してみれば鹿乃自身は写っていなかったかもしれない。でも良くは思い出せない。スルースキルだけは年々上がっている気がする。
「私たちが鹿乃先輩のマウントに反応しないから罰を与えてるんだよ。ほんっとに性格悪い」
美羽の怒りは鎮まらない。
でも私が妙に冷静でいられるのは、美羽がこうして暴言を吐いてくれるからだと思う。
「っていうか、美羽。今日はその滝川オーナーと約束してるんでしょ?」
「うん、でも無理だよ。キャンセルしてって電話する」
「いいよ。行ってきなよ。久しぶりのデートなのに」
「そうだけど、それじゃあ彩葉ちゃんだけに残業押し付けちゃう。鹿乃先輩と同じじゃん」
「同じじゃないよ。美羽が前から楽しみにしてたの知ってるもん。忙しい滝川オーナーとのデート、今日を逃せばまたいつになるか分かんないよ? まだまだ繁忙期は続くんだから」
幸い、今日はイベントのDMを送る顧客リストの確認だけだ。
一人で出来るし、それほど時間もかからない。
美羽と滝川オーナーは密かに付き合っている。スタッフで知っているのは私だけだ。
数店舗あるネイルサロンにはネイリストの学校も併設されている。メディアにも顔出ししているオーナーとの時間が中々取れないのは、恋愛経験のない私でも分かる。
強引に美羽を帰らせ、タブレットを持って店のソファー席へ座った。
「あーー!! 足も腰も全身だるい!!」
大の字になってうんと伸びをする。
ここのソファーは滝川オーナーのこだわりだけあって、座り心地が最高だ。こうして残業している時は特等席にしている。
けれど今日ばかりはそれがいけなかった。
顧客リストのチェックを終え、フォルダーにまとめたまでは記憶している。
しかし私は疲労のあまり、ソファーで寝落ちしてしまったのだ。
「やばいっ!!」
飛び起きた時には終電の時間が迫っていた。慌ててタブレットをしまい、店を後にする。
駅までは少し離れている。全力疾走しても間に合うかどうかの瀬戸際。
自慢じゃないが、私は走るのが……遅い!! その上、十一月末頃から続いている繁忙期の疲労が抜けていない。寝起きで飛び出して頭も働かない。一月の凍てつく寒さで今にも転びそうだ。
「無理だ、間に合いっこない」
肩で息をしながら、フラフラな足取りで駅を目指す。間に合わないと分かっていても諦められない。
どうしても家に帰りたかった。熱めの湯を張ったお風呂に浸かりたいし、何よりベッドで寝たい。
「なんで寝落ちなんかするの、私のバカ」
何時になってもいい。明日は非番だ。泥のように眠りたい。
なのに終電は行ってしまった。
私が駅に着くよりも前に、無情にも走り去ってしまったのだ。
「やだ……待って……」
体力の限界。メンタルは崩壊。
すぐ隣にあったベンチに倒れ込む勢いで座り、夜空を見上げた。
寒さで澄み切った空気に白い息がふわりと立ち上がっては流されていく。その先に見える空では、星の輝きがやけに鮮明に感じた。
でもそれで私の心が癒されるわけではない。
「本当に、最悪……やってらんない」
念願叶ってネイリストになって三年。仕事は楽しいし、やりがいがある。でもあの鹿乃だけがどうしても苦手だ。今日の残業だって、どうせ店長には「自分がやりました」と言って横取りするに決まっている。
滝川オーナーには他店への移動願いを出しているが、今のところスタッフの空きがないらしく保留にされている。
酷い息切れはしばらく治まりそうにない。私はスマホを取り出しSNSを開いた。
『# 終電逃した 夜空が綺麗だけど、上手く撮れないな』
ぼやけた空の写真を添付する。普段はネイル関連の投稿しかしていないが、気持ちを吐き出す場所が他に思いつかなかった。
後で消せばいいや……。どうしても気分を紛れさせたかった。
「はぁ……寒い」
風が鋭く肌を刺し、体温を奪っていく。
目の前にある自販機で温かい飲み物を買いたいが、それすら体が反応してくれなかった。
このままでは風邪を引いてしまう。
先月一度だけ寝るために利用した漫画喫茶が近くにあるが、全く熟睡できなかった。
やはりタクシーを使ってでも帰ろうと思い、スマホの画面を見たタイミングでコメントが届いた。
「俺も終電逃しました。同士ですね……。だって」
アカウントに飛ぶと、どうやらバーテンダーらしかった。
本人の写真は載っていない。アカウント名は『Koh〜煌〜』。
本名だろうか。店の名前は違っている。
「お互い、災難ですね」
返信する。
『めっちゃ寒いです』
直ぐにコメントが返ってくる。
「本当に。凍えそうだよね。タクシー捕まるかな」
『俺は店に戻って寝させてもらう』
「いいなぁ。私は明日仕事は休みだけど、お店は営業するから寝られないや」
呟いて、また返信する。
深夜テンションだからか、会話のラリーがしばらく続いた。煌は私が返信してくれるとは思っていなかったようで、親切ですねと言ってくれた。誰かと話したい気分だったからコメントもらえて嬉しいと返す。
ほどなくしてタクシーが捕まり、煌にタクシーに乗った旨を伝えると、ちょうど向こうも店に戻ったらしい。『お疲れ様。おやすみ』と通知が届き、続けて【フォローされました】と表示された。
フォローされるとは思っていなかった。なんだか胸がざわつく。顔も知らない相手に、心を支配されていた。私からもフォローを返す。偶然、終電を逃したタイミングが同じだった。少しの間、SNSで会話をした。ただそれだけの関係。会うこともないし、今後もコメントをもらえる保証もない。
なのに何かを期待してしまう。これは私に異性への耐性が無さすぎるからか。そうとしか思えない。
向こうも無意識でフォローボタンを押しただけかもしれない。誤タップかもしれない。でもそれならば後から外されないように私からもフォローを返さなければならない。なんとなく、今日だけの関係で終わらせたくなかった。
「いいねを押すくらいは許されるよね」
ワケの分からない言い訳をする。だって煌はきっとモテる。そんな気がする。でしゃばるつもりはない。沢山ついている“いいね”の一つに私のアイコンが並べば、たまには目に止めてくれるかもしれない。その時に今日の夜風が冷たかったことを思い出して欲しいだけだ。
必死な自分に呆れる。
たった一度コメント欄で会話をしただけの相手に、いろんな言い訳を考えるなんて。
でも煌のおかげで今日の残業の疲れも寒さも忘れられた。そのくらい、私は舞い上がっていた。
マンションに戻ると熱めの湯を張ったお風呂に浸かり、休日の前夜だけ許している缶酎ハイを冷蔵庫から取り出す。私の休日の前日に残業を押し付けるのは鹿乃の得意技なので、予めご飯もレンチンするだけのものを準備していた。
缶酎ハイを一気に流し込むと「ぷはっ」と息を吐き出す。冬季限定トリプルベリー味は、今の気分にぴったりだった。
さっきのコメント欄を読み返し、スクショをした。
仕事用に作ったアカウントだから後で消すとは煌にも伝えてあった。それに、こういう投稿に限って鹿乃は目敏く見つける。コメントの相手が男なんて知られれば、鹿乃も煌のアカウントをフォローするかもしれない。なんなら、バーにも押しかけてもおかしくない。
とにかく鹿乃にだけは煌の存在を隠しておきたい。消したくなかったけれど、あの時間を自分だけのものにしておきたかった。
投稿を削除すると虚しさに苛まれる。ネイルに埋め尽くされたアカウントを見ると、魔法にかかった時間は解け、現実に戻った気がした。
煌は意外にも、その後も私の投稿に反応を送ってくれた。たまにDMが届いて『このネイル可愛い』と褒めてくれた。煌は男からコメントが届くのは他の人が嫌がるかもしれないと、わざわざ気を遣ってDMで感想をくれるのだった。そういう時は少し話も出来て嬉しかった。煌は大学院と仕事で忙しいから、返事が直ぐに返ってくる時とそうじゃない時がある。けれどそれで良かった。大勢いる仲良しの一人になれた気がした。それに、向こうから反応を送ってくれると私からも返しやすい。
煌はバーテンダーとして店に立つ時だけおすすめのカクテルの写真を投稿する。
ものの数秒でいいねが付き、そのうちコメント欄に幾つかのメッセージが寄せられる。その殆どが『○時にお店行くね』という内容だ。
「いいなあ、煌くんのお店に行ける人が羨ましい。どんな話するのかな」
でも私が行けたとして、きっと何の話題も切り出せないまま終わりそうだ。同性ならともかく異性と対面して喋るのは緊張する。
煌はどんな顔をしているのだろうと想像してみる。どんな声で、どんな喋り方をするのだろう。
このコメント欄の人たちはそれを知っている。
自分だって、足を伸ばせば行けないことはない。でも生憎、そんな行動力は持ち合わせていなかった。何より恥ずかしいではないか。終電を逃したタイミングが同じ。共通点はそれだけだ。そんな人がいきなり店に来れば、怖がられるかもしれない。それに実物の私を見た時にガッカリされたくない。
ネイリストなんて一見華やかな職業。派手な人だと想像されていてもおかしくはない。鹿乃であれば当てはまるだろうが、全員がそうではないのだ。
SNSの中だけ。この距離感がちょうど良いと思い直す。顔の見えない人に心を惹かれながら、仕事に追われる日々は続く。
転機は二ヶ月後に訪れた。
「桜庭、ちょっといいか」
滝川オーナーに呼ばれ、開店前に事務所に行く。背後から鹿乃の視線を感じたが意識して見ないようにした。
「以前、他店への移動願いを出していたと思うんだけど、今でも気持ちは変わってないのかなって思って」
「別店舗でスタッフの空きが出たんですか?」
「でも桜庭が住んでる所からだと遠くなるから無理にとは言わない」
場所を聞けば、なんと煌がアルバイトをしているバーがある街だった。
これは何かの巡り合わせかもしれないと思わずにはいられない。もちろん自分本意だと自覚している。
私が勝手に浮かれているだけ。煌の活動圏内に存在する一つの点になりたい。同じ空気を吸ってみたい。それだけで何でも頑張れる気がする。完全なる自己満足でいい。煌に迷惑をかけたくはないし、勝手に心の拠り所にしているだけだから。
はやる気持ちを抑えられず、即答で「移動したいです」と申し出た。
「別に何日か考えてもいいんだよ? 次の休みに、一度見に行ってからでもいい」
多忙な人とは思えないくらい柔らかい口調で話す。
実際、移動するのに片道どのくらいの時間を要するのか、店の雰囲気には馴染めそうか、確認する時間は充分取れる。けれど迷っている間にたった一つ空いた席を誰にも取られたくなかった。
「私、行きます。お願いします!!」
滝川オーナーはすんなりと笑顔で「助かるよ」と受理してくれた。
「じゃあ、四月から移動ってことで。顧客には順次伝えていいから」
「ありがとうございます!!」
勢いよく体を半分に折り畳む。
「そんなキャラだった?」なんて苦笑いをされてしまった。
その足で美羽に報告しに行く。美羽は「寂しい」と言いながらも、希望が叶って良かったねと言ってくれた。
「たまには、ご飯行こうね」
「うん、もしも美羽が嫌な目に遭ったらいつでも話聞くし、滝川オーナーにも我慢せずに話すんだよ?」
後一ヶ月。これまで待った時間を考えれば、あっという間に終わるんだろうなと思った。
鹿乃は私の移動の話を聞いてから、さらに残業を押し付けてくるようになった。八つ当たりの対象が一人減って、さぞ悔しがっていることだろう。
私は滝川オーナーに全てを暴露した。ここを離れる私が美羽にしてあげられるのはそのくらい。私がいなくなってからターゲットが美羽だけになるなんて考えると、自分だけ逃げた罪悪感に押し潰されそうになる。
滝川オーナーは鹿乃は時期を見て解雇すると決めた。
この一ヶ月の間に、新しい店舗への挨拶がてら移動時間や通勤ルートも把握しておいた。
……ついでに煌のバーの前も通ってみた。昼間だから誰もいない。もちろん煌だっていない。
周りに人がいないのを確かめ、さりげなく店の写真を撮ったのは許して欲しい。
これからも私の心の支えは煌だけなのだ。
『新店舗に移りました』
そうSNSに投稿すると、数時間経って煌からDMが届く。
『ayaさん、新店舗って俺のバーとそんなに離れてないよ』
すっかり敬語の抜けた煌からのメッセージに顔が綻ぶ。
『そうだったんだ!! 偶然、ここの店舗のスタッフに空きが出たんだよね』
知っているのに、知らないふりをした。知ってて移動したなんてバレると、まるで煌を追ってきたみたいに思われてしまう。
煌は特に何も気に留めなかったようで安堵する。
『結構前から決まってた?』
『一ヶ月くらい前かな。移動の希望はもっとずっと前から出してたんだ。で、念願叶ってやっと別店舗に来られたってわけ』
『そうだったんだ。早く知りたかった。お店に招待したいんだけど、お酒は苦手だったりする?』
思わぬ誘いに一瞬体が固まった。煌の店に……? 私が……?
「え、無理無理無理……。そんなの緊張して何も喋れない」
心拍数が一気に跳ね上がる。行きたい……でもそんな勇気ない。内緒で店の写真を撮ったのを激しく後悔してすぐさま削除した。冷静に考えればストーカーみたいだ。
頭の中では何と言って断るかしか考えていなかった。もっと自分に自信のある人になりたかった。煌がどんな人であっても私から幻滅なんてしない。けれど相手から「思ってたのと違う」なんて思われるだけで生きていけない。
『まだ移動したばかりでバタバタしているから。落ち着いたら連絡するね』
はっきりとは断らず、しかしこれなら嫌な感じには取られないだろう。煌は『いつでも待ってる』と言ってくれた。
そう言われると頭の中では妄想が膨らむ。
店のカウンター越しに楽しく会話をする私と煌……。想像の中の私はとても流暢に話せていて、笑い声が溢れ、煌の眸はまるで私に恋をしているようだった。
ひとしきり妄想に浸り、我に帰っては反省する日々を二週間ほど送った頃……私はこっそりとバーに行ってみることにした。
というのも、その後も煌は度々DMで店に招待したい旨を話すのだ。さり気なく、無理強いしない程度に。
そこで私は先ず“煌”という人を観察してみて、まともに話せそうか判断しようと思い立ったのだ。
勤務が早番で翌日が休みという日を選び、店に煌が出勤するのをSNSでチェックして混んでそうな時間になるのを待ってから入店した。
カナリ緊張していて、席に案内されるだけでギクシャクしてしまう。
「初めての方ですよね」
若い男性店員に声をかけられ「はい」と答える。
目が合った瞬間、この人が煌だと悟った。柔らかそうな髪がふわりと揺れ、人懐っこい子犬のような笑顔を見せる。大学院生だと聞いていたが、もっと若く感じる。それでも捲っているシャツの袖から覗く上腕は男らしさを感じてしまう。
「カウンターにどうぞ」八席並んでいる、奥から二番目の席に通された。
「お一人で飲むのが好きな人ですか?」と聞かれ、返事に困ってしまった。本当は誰かと行きたいが、いつも夜遅くまで仕事をしていて、休日は疲れて寝るだけ。考えてみれば最近、誰とも遊んですらなかったと気付く。
「愚痴ではないんですけど……」と、そのままを伝えると、煌は「お疲れ様ですね」と、おすすめのカクテルを作ってくれた。
その手さばきを夢中で見詰める。所作の一つ一つに見惚れてしまう。グラスに注がれているカクテルを眺めながら、私は自分の気持ちを認めざるを得なかった。
———私、やっぱり煌が好きだ。
ドキドキして落ち着かない。今日は招待されてきたわけではないから、煌は私がayaこと桜庭彩葉とは知らない。
早めに帰ろうと思った。ここで過ごす時間が長いほど煌を深く好きになってしまう気がして怖かった。
もうこの店に来てはいけない。
今度DMで誘われた時は行けないとはっきり断ろうと心に決めた。理由は何だっていい。仕事が忙しいとか、実はお酒が飲めないとか、とにかく“私がayaです”と名乗って煌の前に現れなければいい。
だからこのカクテルを飲み干すまでは、この時間に酔っていたい。洒落た音楽が流れるこの空間はとても居心地がいい。照明は明るすぎず、店内は静かすぎず、一人で気兼ねなく楽しんでいる人もいる。カウンターに煌がいる。この店に来られて本当に良かった。
きっと煌もこの店が好きなんだ。だから私に客として招きたかった。大勢いる客の一人として……。
店舗移動前、私は煌の活動圏内に存在する一つの点になりたいと思った。今、その願いが叶って満足している。
最後の一口を飲み干すと、席を立つ。
「あれ、もう帰っちゃうんですか?」
呼び止めたのは煌だった。
「ごちそうさまでした。明日は仕事が休みで少し楽しみたかっただけなんです。でも家が遠いから終電を逃さないように早めに帰らないと」
「また、来てくれますか? ayaさん」
「え……? なん……で」
「やっぱり。何となく、ayaさんだといいなって思ってたんだけど、ネイル見て確信した。覚えてない? 俺がこのネイル好きだって言ったの」
そういえば……。自分の爪を見る。移動してすぐに施したネイルは明日新しいデザインに変えようと思っていた。
「来てくれて嬉しい。もしかして嫌なのかなって思ってたから」
「嫌じゃない……けど、私を見て想像と違うって落胆されるかもって思うと名乗るのが怖くて」
「俺、そんな酷いやつじゃないよ」
「分かってる。煌は優しいもん。私が自分に自信が持てないってだけ」
「でも来てくれたじゃん」
「SNS見て、素敵なお店だなって思ってたから。一回だけ楽しんで満足しようって自分に言い聞かせて来たの」
「なんで言い聞かせないといけないの? 来ちゃ行けない理由があるとか?」
「違っ! そんなんじゃない……けど……」
煌を困らせている。やっぱり来るべきじゃなかった。SNSの中でだけやり取りして満足するべきだった。
あまり長い時間喋ると、さっき確信したばかりの自分の気持ちが伝わってしまいそうだ。だから、その前に立ち去ろうとしている。それを正直に説明するわけにもいかず、互いに引くに引けない状況になってしまった。
気まずい。でもここで無理矢理帰ったら、SNSのやり取りさえ無くなってしまう気がする。
「あの、もし良かったらこの後ご飯食べに行かない?」
「え? でも、仕事は……」
「今日は他のバイトが遅れるからその穴埋めで来てるだけなんだ。もうすぐそいつも来るだろうし、少しだけ待ってて」
「うん」
結局、さっきの席に座り直す。
「煌から誘うなんて珍しいじゃん」
常連客っぽい男性客に茶化される。
「ナンパじゃないからね。元々、知ってる人なの」
「へぇ、そうなんだぁ。煌がねぇ」
「変な目で見ないでよ。誤解されたら気まずい。じゃあ俺もう交代するから。ゆっくりしてってね」
「良い結果を期待してるよ」
「だから、やめてって」
ヒソヒソ声がはっきりと聞こえてきて、私の方がどんな顔でいれば良いのか分からない。
煌は私の前を通りながら「着替えてくるから」と手短に言って、バックルームにはけて行った。
五分ほどして別のドアから店内に入ってくる。
さっきまでのスーツとは打って変わって、少しオーバーサイズのダウンジャケットに黒いパンツというファッションだ。こっちの方が煌のイメージに合っている。(スーツも素敵だけど)
「お待たせ。店、変えよう。ここは知り合いばっかで視線が気になる」
「じゃあ、先に支払い……」
「良い、俺の奢りにしといた」
「そんなの悪いよ」
「本当はちゃんと招待して飲んで欲しかったから。お近づきの印ってことで」
煌は一刻も早くここから立ち去りたいらしく、喋りながらも出入り口へと向かう。慌てて後ろからついて行った。
四月の夜はまだ寒い。腕に掛けていたストールを首に巻き、煌の隣を歩く。
「夜遅いから、軽く食べられる方がいいよね?」
「気にしないで、ラーメンでも何でも良いよ」
「かっこいいね。じゃあ、寒いしラーメン屋行く?」
「コッテリが良い」
「ayaさん、見た目と好みが全然違うね。もっとオシャレなカフェとかが良いのかと思ってた」
「そうかな。私、プライベートは全然女子力ないよ」
「気取ってなくて俺は好き」
好き……他意はないのに言われ慣れてなくてドキッとしてしまう。意識してるのがバレないように「あはは」と笑ってみせる。
「店に入った時、声をかけてくれたのが煌だって直ぐに分かったよ」
「イメージ通りだった?」
「うん、顔は想像できなかったけど、勝手に描いていた理想像そのままだった」
「なにそれ、プレッシャーやばい。でもayaさんもそうだった」
「本当に? まさかバレるとは思いも寄らなかった」
「別の場所で出会ったとしても、俺はayaさんだって気付いた自信あるよ」
二人の会話は弾む。
「私の本名は桜庭彩葉っていうの」
「俺は神崎煌」
改めて自己紹介もして、“彩葉”と“煌”と呼び合うことに決めた。
SNSでやり取りしていたからか、対面が初めてだとは思えないくらい意気投合した。だから恐れていたほど緊張はしなくて済んだ。
その代わりに、今度は帰りたくなくなってしまう。いつまでもこの時間が続けば良いのに……そればかり考えてしまう。ラーメン屋を出ると深夜カフェに移動した。並んでソファー席に座ると、私の右腕と煌の左腕が引っ付いた。気付いていないふりをして、その温もりを手放そうとはしないかった。
このまま時間が止まれば良いのに……なんて考えても、時間は無情にも過ぎていく。終電が近づいてくる。「そろそろ帰らなきゃ」その言葉を言うタイミングを何度か逃した。煌は時間を気にしていないのか、時計を見ようともしない。流石に久しぶりにダッシュしないといけない時間になっている。チラチラと時計を見る私に、煌は「帰る?」と寂しそうに言った。
「うん、本当に終電がやばいから」
お会計を済ませて外に出る。夜空には星が煌めいていた。
「……彩葉」
不意に呼び止められ、心臓が跳ねた。名前で呼ぼうと決めたものの、癖で煌はずっと私を“ayaさん”と呼んでいたから。
振り返って煌を見る。煌は逡巡したのち、「帰らないで……欲しい」と言った。
「終電で帰らないで。朝まで一緒にいてほしい。下心は……あの……あります……」
店から漏れる灯りだけでも、煌が赤面しているのが分かった。私に伸ばした手が震えているのは、寒いからではなさそうだ。
私は体の奥から込み上げてくる悦びを表情に隠せなかった。
見上げた煌の瞳には、一番綺麗な星が輝いていた。
「彩葉、美羽、悪いんだけど、急遽合コンに誘われてさ。二人でイベントの準備、進めてくれない?」
先輩ネイリストの鹿乃は、まるで悪びれる様子も見せずに言った。
イベント近くになって慌てずに済むよう、いつもより早く準備に取り掛かろうと提案した張本人だ。
同期の美羽と私は、全く同じ表情で固まっていたと思う。
『またか……』
心の声が漏れなかったのを誰か褒めて欲しいものだ。
鹿乃は年齢で言えば二歳しか違わないのだけれど、ネイリストになった年齢が私よりも早く、今は副店長を任されている。店長である佐伯は店長業務が忙しいゆえ、鹿乃にスタッフの教育などを任せていて、それをいいことにやりたい放題。その理由の殆どは自分が合コンに行くための穴埋めで、常に私と美羽がターゲットだった。
閉店後、さっさと帰ってしまった鹿乃の背中を見送ると、美羽は怪訝な表情を剥き出しにした。
「最初からそのつもりだったよね? 今日、鹿乃先輩を合コンに誘う顧客様なんて来てなかったじゃん」
「そうだけど、メッセージが届いてたとか、なんとでも言えるよ」
「っていうか、あれだけ合コン行っても彼氏が出来ないなんて余程じゃない? 彩葉ちゃん知ってる? 鹿乃先輩、クリスマスにクルージングパーティー行ってたってやつ、嘘だよ」
「そうなの!?」
「そうそう。あれ、滝川さんが行ってた写真を私たちに見せてただけ。得意のマウント用SNSアカウントには投稿してない」
「気付かなかった……」
だってクリスマスも私は残業をしていたから。
思い返してみれば鹿乃自身は写っていなかったかもしれない。でも良くは思い出せない。スルースキルだけは年々上がっている気がする。
「私たちが鹿乃先輩のマウントに反応しないから罰を与えてるんだよ。ほんっとに性格悪い」
美羽の怒りは鎮まらない。
でも私が妙に冷静でいられるのは、美羽がこうして暴言を吐いてくれるからだと思う。
「っていうか、美羽。今日はその滝川オーナーと約束してるんでしょ?」
「うん、でも無理だよ。キャンセルしてって電話する」
「いいよ。行ってきなよ。久しぶりのデートなのに」
「そうだけど、それじゃあ彩葉ちゃんだけに残業押し付けちゃう。鹿乃先輩と同じじゃん」
「同じじゃないよ。美羽が前から楽しみにしてたの知ってるもん。忙しい滝川オーナーとのデート、今日を逃せばまたいつになるか分かんないよ? まだまだ繁忙期は続くんだから」
幸い、今日はイベントのDMを送る顧客リストの確認だけだ。
一人で出来るし、それほど時間もかからない。
美羽と滝川オーナーは密かに付き合っている。スタッフで知っているのは私だけだ。
数店舗あるネイルサロンにはネイリストの学校も併設されている。メディアにも顔出ししているオーナーとの時間が中々取れないのは、恋愛経験のない私でも分かる。
強引に美羽を帰らせ、タブレットを持って店のソファー席へ座った。
「あーー!! 足も腰も全身だるい!!」
大の字になってうんと伸びをする。
ここのソファーは滝川オーナーのこだわりだけあって、座り心地が最高だ。こうして残業している時は特等席にしている。
けれど今日ばかりはそれがいけなかった。
顧客リストのチェックを終え、フォルダーにまとめたまでは記憶している。
しかし私は疲労のあまり、ソファーで寝落ちしてしまったのだ。
「やばいっ!!」
飛び起きた時には終電の時間が迫っていた。慌ててタブレットをしまい、店を後にする。
駅までは少し離れている。全力疾走しても間に合うかどうかの瀬戸際。
自慢じゃないが、私は走るのが……遅い!! その上、十一月末頃から続いている繁忙期の疲労が抜けていない。寝起きで飛び出して頭も働かない。一月の凍てつく寒さで今にも転びそうだ。
「無理だ、間に合いっこない」
肩で息をしながら、フラフラな足取りで駅を目指す。間に合わないと分かっていても諦められない。
どうしても家に帰りたかった。熱めの湯を張ったお風呂に浸かりたいし、何よりベッドで寝たい。
「なんで寝落ちなんかするの、私のバカ」
何時になってもいい。明日は非番だ。泥のように眠りたい。
なのに終電は行ってしまった。
私が駅に着くよりも前に、無情にも走り去ってしまったのだ。
「やだ……待って……」
体力の限界。メンタルは崩壊。
すぐ隣にあったベンチに倒れ込む勢いで座り、夜空を見上げた。
寒さで澄み切った空気に白い息がふわりと立ち上がっては流されていく。その先に見える空では、星の輝きがやけに鮮明に感じた。
でもそれで私の心が癒されるわけではない。
「本当に、最悪……やってらんない」
念願叶ってネイリストになって三年。仕事は楽しいし、やりがいがある。でもあの鹿乃だけがどうしても苦手だ。今日の残業だって、どうせ店長には「自分がやりました」と言って横取りするに決まっている。
滝川オーナーには他店への移動願いを出しているが、今のところスタッフの空きがないらしく保留にされている。
酷い息切れはしばらく治まりそうにない。私はスマホを取り出しSNSを開いた。
『# 終電逃した 夜空が綺麗だけど、上手く撮れないな』
ぼやけた空の写真を添付する。普段はネイル関連の投稿しかしていないが、気持ちを吐き出す場所が他に思いつかなかった。
後で消せばいいや……。どうしても気分を紛れさせたかった。
「はぁ……寒い」
風が鋭く肌を刺し、体温を奪っていく。
目の前にある自販機で温かい飲み物を買いたいが、それすら体が反応してくれなかった。
このままでは風邪を引いてしまう。
先月一度だけ寝るために利用した漫画喫茶が近くにあるが、全く熟睡できなかった。
やはりタクシーを使ってでも帰ろうと思い、スマホの画面を見たタイミングでコメントが届いた。
「俺も終電逃しました。同士ですね……。だって」
アカウントに飛ぶと、どうやらバーテンダーらしかった。
本人の写真は載っていない。アカウント名は『Koh〜煌〜』。
本名だろうか。店の名前は違っている。
「お互い、災難ですね」
返信する。
『めっちゃ寒いです』
直ぐにコメントが返ってくる。
「本当に。凍えそうだよね。タクシー捕まるかな」
『俺は店に戻って寝させてもらう』
「いいなぁ。私は明日仕事は休みだけど、お店は営業するから寝られないや」
呟いて、また返信する。
深夜テンションだからか、会話のラリーがしばらく続いた。煌は私が返信してくれるとは思っていなかったようで、親切ですねと言ってくれた。誰かと話したい気分だったからコメントもらえて嬉しいと返す。
ほどなくしてタクシーが捕まり、煌にタクシーに乗った旨を伝えると、ちょうど向こうも店に戻ったらしい。『お疲れ様。おやすみ』と通知が届き、続けて【フォローされました】と表示された。
フォローされるとは思っていなかった。なんだか胸がざわつく。顔も知らない相手に、心を支配されていた。私からもフォローを返す。偶然、終電を逃したタイミングが同じだった。少しの間、SNSで会話をした。ただそれだけの関係。会うこともないし、今後もコメントをもらえる保証もない。
なのに何かを期待してしまう。これは私に異性への耐性が無さすぎるからか。そうとしか思えない。
向こうも無意識でフォローボタンを押しただけかもしれない。誤タップかもしれない。でもそれならば後から外されないように私からもフォローを返さなければならない。なんとなく、今日だけの関係で終わらせたくなかった。
「いいねを押すくらいは許されるよね」
ワケの分からない言い訳をする。だって煌はきっとモテる。そんな気がする。でしゃばるつもりはない。沢山ついている“いいね”の一つに私のアイコンが並べば、たまには目に止めてくれるかもしれない。その時に今日の夜風が冷たかったことを思い出して欲しいだけだ。
必死な自分に呆れる。
たった一度コメント欄で会話をしただけの相手に、いろんな言い訳を考えるなんて。
でも煌のおかげで今日の残業の疲れも寒さも忘れられた。そのくらい、私は舞い上がっていた。
マンションに戻ると熱めの湯を張ったお風呂に浸かり、休日の前夜だけ許している缶酎ハイを冷蔵庫から取り出す。私の休日の前日に残業を押し付けるのは鹿乃の得意技なので、予めご飯もレンチンするだけのものを準備していた。
缶酎ハイを一気に流し込むと「ぷはっ」と息を吐き出す。冬季限定トリプルベリー味は、今の気分にぴったりだった。
さっきのコメント欄を読み返し、スクショをした。
仕事用に作ったアカウントだから後で消すとは煌にも伝えてあった。それに、こういう投稿に限って鹿乃は目敏く見つける。コメントの相手が男なんて知られれば、鹿乃も煌のアカウントをフォローするかもしれない。なんなら、バーにも押しかけてもおかしくない。
とにかく鹿乃にだけは煌の存在を隠しておきたい。消したくなかったけれど、あの時間を自分だけのものにしておきたかった。
投稿を削除すると虚しさに苛まれる。ネイルに埋め尽くされたアカウントを見ると、魔法にかかった時間は解け、現実に戻った気がした。
煌は意外にも、その後も私の投稿に反応を送ってくれた。たまにDMが届いて『このネイル可愛い』と褒めてくれた。煌は男からコメントが届くのは他の人が嫌がるかもしれないと、わざわざ気を遣ってDMで感想をくれるのだった。そういう時は少し話も出来て嬉しかった。煌は大学院と仕事で忙しいから、返事が直ぐに返ってくる時とそうじゃない時がある。けれどそれで良かった。大勢いる仲良しの一人になれた気がした。それに、向こうから反応を送ってくれると私からも返しやすい。
煌はバーテンダーとして店に立つ時だけおすすめのカクテルの写真を投稿する。
ものの数秒でいいねが付き、そのうちコメント欄に幾つかのメッセージが寄せられる。その殆どが『○時にお店行くね』という内容だ。
「いいなあ、煌くんのお店に行ける人が羨ましい。どんな話するのかな」
でも私が行けたとして、きっと何の話題も切り出せないまま終わりそうだ。同性ならともかく異性と対面して喋るのは緊張する。
煌はどんな顔をしているのだろうと想像してみる。どんな声で、どんな喋り方をするのだろう。
このコメント欄の人たちはそれを知っている。
自分だって、足を伸ばせば行けないことはない。でも生憎、そんな行動力は持ち合わせていなかった。何より恥ずかしいではないか。終電を逃したタイミングが同じ。共通点はそれだけだ。そんな人がいきなり店に来れば、怖がられるかもしれない。それに実物の私を見た時にガッカリされたくない。
ネイリストなんて一見華やかな職業。派手な人だと想像されていてもおかしくはない。鹿乃であれば当てはまるだろうが、全員がそうではないのだ。
SNSの中だけ。この距離感がちょうど良いと思い直す。顔の見えない人に心を惹かれながら、仕事に追われる日々は続く。
転機は二ヶ月後に訪れた。
「桜庭、ちょっといいか」
滝川オーナーに呼ばれ、開店前に事務所に行く。背後から鹿乃の視線を感じたが意識して見ないようにした。
「以前、他店への移動願いを出していたと思うんだけど、今でも気持ちは変わってないのかなって思って」
「別店舗でスタッフの空きが出たんですか?」
「でも桜庭が住んでる所からだと遠くなるから無理にとは言わない」
場所を聞けば、なんと煌がアルバイトをしているバーがある街だった。
これは何かの巡り合わせかもしれないと思わずにはいられない。もちろん自分本意だと自覚している。
私が勝手に浮かれているだけ。煌の活動圏内に存在する一つの点になりたい。同じ空気を吸ってみたい。それだけで何でも頑張れる気がする。完全なる自己満足でいい。煌に迷惑をかけたくはないし、勝手に心の拠り所にしているだけだから。
はやる気持ちを抑えられず、即答で「移動したいです」と申し出た。
「別に何日か考えてもいいんだよ? 次の休みに、一度見に行ってからでもいい」
多忙な人とは思えないくらい柔らかい口調で話す。
実際、移動するのに片道どのくらいの時間を要するのか、店の雰囲気には馴染めそうか、確認する時間は充分取れる。けれど迷っている間にたった一つ空いた席を誰にも取られたくなかった。
「私、行きます。お願いします!!」
滝川オーナーはすんなりと笑顔で「助かるよ」と受理してくれた。
「じゃあ、四月から移動ってことで。顧客には順次伝えていいから」
「ありがとうございます!!」
勢いよく体を半分に折り畳む。
「そんなキャラだった?」なんて苦笑いをされてしまった。
その足で美羽に報告しに行く。美羽は「寂しい」と言いながらも、希望が叶って良かったねと言ってくれた。
「たまには、ご飯行こうね」
「うん、もしも美羽が嫌な目に遭ったらいつでも話聞くし、滝川オーナーにも我慢せずに話すんだよ?」
後一ヶ月。これまで待った時間を考えれば、あっという間に終わるんだろうなと思った。
鹿乃は私の移動の話を聞いてから、さらに残業を押し付けてくるようになった。八つ当たりの対象が一人減って、さぞ悔しがっていることだろう。
私は滝川オーナーに全てを暴露した。ここを離れる私が美羽にしてあげられるのはそのくらい。私がいなくなってからターゲットが美羽だけになるなんて考えると、自分だけ逃げた罪悪感に押し潰されそうになる。
滝川オーナーは鹿乃は時期を見て解雇すると決めた。
この一ヶ月の間に、新しい店舗への挨拶がてら移動時間や通勤ルートも把握しておいた。
……ついでに煌のバーの前も通ってみた。昼間だから誰もいない。もちろん煌だっていない。
周りに人がいないのを確かめ、さりげなく店の写真を撮ったのは許して欲しい。
これからも私の心の支えは煌だけなのだ。
『新店舗に移りました』
そうSNSに投稿すると、数時間経って煌からDMが届く。
『ayaさん、新店舗って俺のバーとそんなに離れてないよ』
すっかり敬語の抜けた煌からのメッセージに顔が綻ぶ。
『そうだったんだ!! 偶然、ここの店舗のスタッフに空きが出たんだよね』
知っているのに、知らないふりをした。知ってて移動したなんてバレると、まるで煌を追ってきたみたいに思われてしまう。
煌は特に何も気に留めなかったようで安堵する。
『結構前から決まってた?』
『一ヶ月くらい前かな。移動の希望はもっとずっと前から出してたんだ。で、念願叶ってやっと別店舗に来られたってわけ』
『そうだったんだ。早く知りたかった。お店に招待したいんだけど、お酒は苦手だったりする?』
思わぬ誘いに一瞬体が固まった。煌の店に……? 私が……?
「え、無理無理無理……。そんなの緊張して何も喋れない」
心拍数が一気に跳ね上がる。行きたい……でもそんな勇気ない。内緒で店の写真を撮ったのを激しく後悔してすぐさま削除した。冷静に考えればストーカーみたいだ。
頭の中では何と言って断るかしか考えていなかった。もっと自分に自信のある人になりたかった。煌がどんな人であっても私から幻滅なんてしない。けれど相手から「思ってたのと違う」なんて思われるだけで生きていけない。
『まだ移動したばかりでバタバタしているから。落ち着いたら連絡するね』
はっきりとは断らず、しかしこれなら嫌な感じには取られないだろう。煌は『いつでも待ってる』と言ってくれた。
そう言われると頭の中では妄想が膨らむ。
店のカウンター越しに楽しく会話をする私と煌……。想像の中の私はとても流暢に話せていて、笑い声が溢れ、煌の眸はまるで私に恋をしているようだった。
ひとしきり妄想に浸り、我に帰っては反省する日々を二週間ほど送った頃……私はこっそりとバーに行ってみることにした。
というのも、その後も煌は度々DMで店に招待したい旨を話すのだ。さり気なく、無理強いしない程度に。
そこで私は先ず“煌”という人を観察してみて、まともに話せそうか判断しようと思い立ったのだ。
勤務が早番で翌日が休みという日を選び、店に煌が出勤するのをSNSでチェックして混んでそうな時間になるのを待ってから入店した。
カナリ緊張していて、席に案内されるだけでギクシャクしてしまう。
「初めての方ですよね」
若い男性店員に声をかけられ「はい」と答える。
目が合った瞬間、この人が煌だと悟った。柔らかそうな髪がふわりと揺れ、人懐っこい子犬のような笑顔を見せる。大学院生だと聞いていたが、もっと若く感じる。それでも捲っているシャツの袖から覗く上腕は男らしさを感じてしまう。
「カウンターにどうぞ」八席並んでいる、奥から二番目の席に通された。
「お一人で飲むのが好きな人ですか?」と聞かれ、返事に困ってしまった。本当は誰かと行きたいが、いつも夜遅くまで仕事をしていて、休日は疲れて寝るだけ。考えてみれば最近、誰とも遊んですらなかったと気付く。
「愚痴ではないんですけど……」と、そのままを伝えると、煌は「お疲れ様ですね」と、おすすめのカクテルを作ってくれた。
その手さばきを夢中で見詰める。所作の一つ一つに見惚れてしまう。グラスに注がれているカクテルを眺めながら、私は自分の気持ちを認めざるを得なかった。
———私、やっぱり煌が好きだ。
ドキドキして落ち着かない。今日は招待されてきたわけではないから、煌は私がayaこと桜庭彩葉とは知らない。
早めに帰ろうと思った。ここで過ごす時間が長いほど煌を深く好きになってしまう気がして怖かった。
もうこの店に来てはいけない。
今度DMで誘われた時は行けないとはっきり断ろうと心に決めた。理由は何だっていい。仕事が忙しいとか、実はお酒が飲めないとか、とにかく“私がayaです”と名乗って煌の前に現れなければいい。
だからこのカクテルを飲み干すまでは、この時間に酔っていたい。洒落た音楽が流れるこの空間はとても居心地がいい。照明は明るすぎず、店内は静かすぎず、一人で気兼ねなく楽しんでいる人もいる。カウンターに煌がいる。この店に来られて本当に良かった。
きっと煌もこの店が好きなんだ。だから私に客として招きたかった。大勢いる客の一人として……。
店舗移動前、私は煌の活動圏内に存在する一つの点になりたいと思った。今、その願いが叶って満足している。
最後の一口を飲み干すと、席を立つ。
「あれ、もう帰っちゃうんですか?」
呼び止めたのは煌だった。
「ごちそうさまでした。明日は仕事が休みで少し楽しみたかっただけなんです。でも家が遠いから終電を逃さないように早めに帰らないと」
「また、来てくれますか? ayaさん」
「え……? なん……で」
「やっぱり。何となく、ayaさんだといいなって思ってたんだけど、ネイル見て確信した。覚えてない? 俺がこのネイル好きだって言ったの」
そういえば……。自分の爪を見る。移動してすぐに施したネイルは明日新しいデザインに変えようと思っていた。
「来てくれて嬉しい。もしかして嫌なのかなって思ってたから」
「嫌じゃない……けど、私を見て想像と違うって落胆されるかもって思うと名乗るのが怖くて」
「俺、そんな酷いやつじゃないよ」
「分かってる。煌は優しいもん。私が自分に自信が持てないってだけ」
「でも来てくれたじゃん」
「SNS見て、素敵なお店だなって思ってたから。一回だけ楽しんで満足しようって自分に言い聞かせて来たの」
「なんで言い聞かせないといけないの? 来ちゃ行けない理由があるとか?」
「違っ! そんなんじゃない……けど……」
煌を困らせている。やっぱり来るべきじゃなかった。SNSの中でだけやり取りして満足するべきだった。
あまり長い時間喋ると、さっき確信したばかりの自分の気持ちが伝わってしまいそうだ。だから、その前に立ち去ろうとしている。それを正直に説明するわけにもいかず、互いに引くに引けない状況になってしまった。
気まずい。でもここで無理矢理帰ったら、SNSのやり取りさえ無くなってしまう気がする。
「あの、もし良かったらこの後ご飯食べに行かない?」
「え? でも、仕事は……」
「今日は他のバイトが遅れるからその穴埋めで来てるだけなんだ。もうすぐそいつも来るだろうし、少しだけ待ってて」
「うん」
結局、さっきの席に座り直す。
「煌から誘うなんて珍しいじゃん」
常連客っぽい男性客に茶化される。
「ナンパじゃないからね。元々、知ってる人なの」
「へぇ、そうなんだぁ。煌がねぇ」
「変な目で見ないでよ。誤解されたら気まずい。じゃあ俺もう交代するから。ゆっくりしてってね」
「良い結果を期待してるよ」
「だから、やめてって」
ヒソヒソ声がはっきりと聞こえてきて、私の方がどんな顔でいれば良いのか分からない。
煌は私の前を通りながら「着替えてくるから」と手短に言って、バックルームにはけて行った。
五分ほどして別のドアから店内に入ってくる。
さっきまでのスーツとは打って変わって、少しオーバーサイズのダウンジャケットに黒いパンツというファッションだ。こっちの方が煌のイメージに合っている。(スーツも素敵だけど)
「お待たせ。店、変えよう。ここは知り合いばっかで視線が気になる」
「じゃあ、先に支払い……」
「良い、俺の奢りにしといた」
「そんなの悪いよ」
「本当はちゃんと招待して飲んで欲しかったから。お近づきの印ってことで」
煌は一刻も早くここから立ち去りたいらしく、喋りながらも出入り口へと向かう。慌てて後ろからついて行った。
四月の夜はまだ寒い。腕に掛けていたストールを首に巻き、煌の隣を歩く。
「夜遅いから、軽く食べられる方がいいよね?」
「気にしないで、ラーメンでも何でも良いよ」
「かっこいいね。じゃあ、寒いしラーメン屋行く?」
「コッテリが良い」
「ayaさん、見た目と好みが全然違うね。もっとオシャレなカフェとかが良いのかと思ってた」
「そうかな。私、プライベートは全然女子力ないよ」
「気取ってなくて俺は好き」
好き……他意はないのに言われ慣れてなくてドキッとしてしまう。意識してるのがバレないように「あはは」と笑ってみせる。
「店に入った時、声をかけてくれたのが煌だって直ぐに分かったよ」
「イメージ通りだった?」
「うん、顔は想像できなかったけど、勝手に描いていた理想像そのままだった」
「なにそれ、プレッシャーやばい。でもayaさんもそうだった」
「本当に? まさかバレるとは思いも寄らなかった」
「別の場所で出会ったとしても、俺はayaさんだって気付いた自信あるよ」
二人の会話は弾む。
「私の本名は桜庭彩葉っていうの」
「俺は神崎煌」
改めて自己紹介もして、“彩葉”と“煌”と呼び合うことに決めた。
SNSでやり取りしていたからか、対面が初めてだとは思えないくらい意気投合した。だから恐れていたほど緊張はしなくて済んだ。
その代わりに、今度は帰りたくなくなってしまう。いつまでもこの時間が続けば良いのに……そればかり考えてしまう。ラーメン屋を出ると深夜カフェに移動した。並んでソファー席に座ると、私の右腕と煌の左腕が引っ付いた。気付いていないふりをして、その温もりを手放そうとはしないかった。
このまま時間が止まれば良いのに……なんて考えても、時間は無情にも過ぎていく。終電が近づいてくる。「そろそろ帰らなきゃ」その言葉を言うタイミングを何度か逃した。煌は時間を気にしていないのか、時計を見ようともしない。流石に久しぶりにダッシュしないといけない時間になっている。チラチラと時計を見る私に、煌は「帰る?」と寂しそうに言った。
「うん、本当に終電がやばいから」
お会計を済ませて外に出る。夜空には星が煌めいていた。
「……彩葉」
不意に呼び止められ、心臓が跳ねた。名前で呼ぼうと決めたものの、癖で煌はずっと私を“ayaさん”と呼んでいたから。
振り返って煌を見る。煌は逡巡したのち、「帰らないで……欲しい」と言った。
「終電で帰らないで。朝まで一緒にいてほしい。下心は……あの……あります……」
店から漏れる灯りだけでも、煌が赤面しているのが分かった。私に伸ばした手が震えているのは、寒いからではなさそうだ。
私は体の奥から込み上げてくる悦びを表情に隠せなかった。
見上げた煌の瞳には、一番綺麗な星が輝いていた。
