【応募版】夫に穢された純愛が兄に止めを刺されるまで
◇1 タイムリープした?
◇◇◇ 1 タイムリープした? ◇◇◇
過去にタイムリープするなんて。ラノベやゲームでは、よくある話かもしれない。現実に……自分の身に起こるとは、思っていなかったけど。
瞼を開く。眩しくて目を細める。
夕暮れ時の赤みを帯びた光が、眼下の川へと注ぐ。目の前にあるのは、懐かしい景色だった。
川沿いの細い道に佇んでいる。私の横を、下校中の中学生が幾人か通り過ぎる。立ち止まっている私を不思議そうな顔で振り返っているけど、歩みを止める者はなく……道の先へと去る。
「まさか」と考え、振り返った先には……やはり。
十五年前に卒業した中学校の校舎がある。今、手に持っている黒い鞄や、着ている紺色の制服、肌のモチモチ感にも説明がつく。頬を指で触りながら、再び校舎を見上げる。夢を見ているのでないなら、タイムリープしてしまったとしか思えない。
記憶にあるイメージと違わぬ中学校は、もう十年も前に取り壊されている筈だった。
「まさか、中学生だった頃に戻ってる?」
独り言ちる。当然、答えてくれる人はいない。唾を飲み込む。
この頃に住んでいた実家も……まだあるのかな?
ふと考え至って、道の先を見る。恐る恐る足を踏み出す。数歩、進んだ後には駆け出していた。
古びた二階建ての家は、細長い坂の途中にある。中学校からは結構な距離を辿ったので、到着する頃には物凄く息切れしていた。震える指で、チャイムのボタンを押す。
玄関の引き戸が開く。中から姿を見せたのは、兄だった。
「何だ、玻璃か。何でチャイム押した? そのまま入って来ればいいのに。誰かと思ったよ」
「お、お兄ちゃん?」
びっくりして大きな声になってしまう。口を押さえ、兄を凝視する。
見知った兄は黒髪で、三十六歳の……そこそこおじさんだった筈なのに。今、目の前にいる兄は金髪で……まくり上げられたTシャツの袖口から、おじさんだった兄にはなかった筋肉が存在を主張している。体付きも全体的にシュッと引き締まっていて、表情もどことなく精悍な雰囲気がある。そして、やはり若返っている。
絶句する。タイムリープした証拠を目の当たりにした気がして、言葉が出て来ない。
「玻璃?」
名前を呼ばれた。何か今……凄く違和感があった。自分の唇に指を当て、思考していた。
「違う!」
重大な間違いに気付いて、声を上げる。
「私、そんな名前じゃない!」
目の前にいる兄に訴える。兄は驚いたように瞳を瞠った。
「私の名前は――」
言い掛けていた口の動きを止める。その時、私は自分が「忘れている」と悟った。名前の事ではない。本当の名前は、しっかりと憶えている。何か……とても大事なものを忘れている。
深刻な顔をしていたと思う。眉間に皺を寄せたまま、考えに耽っていた。兄は首を傾げて「名前がどうした?」と、不思議そうな雰囲気で聞いてくる。
「名前、は……」
呟きを繰り返していたところ、兄が腕組みして「ははぁ」と言った。目を向けると、ニヤリと笑われる。
「お前、名前好きだって言ってたのに……まさか、あのゲームのキャラに飽きた?」
兄の言動の示すところを理解できず、無言で見つめ返す。
「ゲームの、キャラ?」
口にして視線を移動させる。家に掛けてある表札を確認する。
『澄蓮月』
「すみ、れの、つき」
目を見開きながら読む。
兄の脇を通って、家の中へ入る。奥の台所にある階段を、二階へ駆け上がる。かつての……自分の部屋を探る。再び一階へ下り、納戸を漁る。
「見付けた……!」
手にしたのは、思い出深いイラスト。中学生だった頃に描いた、好きなキャラクターの絵だ。胸くらいまで長さのあるサラサラの黒髪に、菫色のヘアバンドが可愛い。この子の名前が「澄蓮月玻璃」なのだ。
友達に借りたゲームのキャラで、いわゆる悪役令嬢というやつだったような気がする。タイムリープしたと思ったら、名前が好きだったゲームのキャラ名になっている?
やっぱり、これは夢なのかなと……自分の頬を両手で叩く。
「お前、どしたん?」
縁側でスイカを食べ始めている兄に聞かれた。
「タイムリープした……かも」
「…………そうか」
私の真剣な告白に……兄は苦そうな表情で頷き、庭の方へ目を逸らす。
「違うから! 私! 今、中学生になってるけど! 中二病で言ってるんじゃないから!」
誤解されたみたいだ。兄が考えていそうな事を、必死に否定する。この重大な非常時に、こんなやり取りをしている場合じゃないのに。
「大丈夫だ。誰だって、そんな時代はある」
「くっ……!」
軽くあしらわれた。憎らしいけど……兄と話すのも久しぶりだなと、少しホッとしている。
元の三十歳だった私は結婚して、兄とは別の家で暮らしている。思い返して俯く。元の大人だった私は、好きな人と結婚した。幸せな生活を夢見ていた。
しかし。現実は甘くなかった。彼には愛人がいて、私は全く愛されていなかった。
彼は私に触れようとしなかった。ただ一回、結婚式にキスした。それだけしか思い出がない。もちろん、それ以上もそれ以下も存在しない。
結婚するまで男性とお付き合いした事もなかったので、未だに色々と経験ができていない。
そんなイモい私だったから、呆れられたんだと思う。彼に、愛人の件を問い詰めてしまったし。
私は、それまでずっと……純愛こそ至高だと信じていたから。夫の考えが許せなかった。私だけ愛してほしいと訴えた。
ある時、彼に尋ねた。
「あなたは……私が、ほかの人と……その……そういう関係になっても、いいって言うの?」
彼は答えた。
「どうぞ? オレは別に、気にしない」
嘲笑うような口調が「どうせお前には無理だろ?」と、言われているみたいに感じた。口を噤んで部屋を出た。その場で涙を零さなかった私を、よく我慢したと褒めてあげたい。
「私、何でこの人と結婚したんだっけ?」
腫れぼったい目のまま、街を歩いていた。季節は冬で、行く先々に綺麗なイルミネーションが飾られてあった。
「ああ、そっか。今日って。もしかして、クリスマスイブだった?」
行き交うカップルを眺めながら思考する。歩くのも考えるのも疲れた。
コンビニで肉まんを買う。街路樹の側に設置されたベンチへ腰を下ろして食べる。雪が降っていた。
肉まんを食べ終わる頃、寒いので家に帰ろうと思った。立ち上がる直前、公園横の車道を隔てた向こう側の道を通り過ぎる……夫を見付けた。
女性と、一緒にいる。
愕然としたけど、気持ちを奮い立たせる。
最後に……彼に言いたい事を、全部伝えよう。もう……終わりにしよう。
立ち上がり、後を追う為に走り出す。
地面が凍っていて足を滑らせた。
酷く、頭を打ってしまった。意識が遠のいてきて「あ、死ぬかも」と、考えたのまでは覚えている。
そして。
意識が戻ると中学校の校舎前にいて、実家に来てみると兄が若返っていて、何故か私の名前が好きなゲームのキャラ名になっていたという訳だ。
タイムリープする直前、私は夫との結婚を後悔していた。「何で、あの人と結婚したんだろう」と、繰り返し自問自答していた。
そんなの、分かってる。好きだからだよ。
ずっと彼の事が好きだった。でも……彼の考えと、私の考えが合わなかった。「仕方なかった」と自分を宥め賺し、諦める心づもりをしていた。
『このタイムリープは、人生をやり直すチャンスなのでは?』
閃く如く浮かんだ思い付きが、脳裏を過る。
私、自分の考えに固執してた。彼に合わせようとしてなかった。私が彼に認められなかったのは、そもそも私も彼を認めていなかったのが原因の一端にあるかもしれないという思考に至り、顔を上げる。
手に持っているイラストへ目を向ける。
「……そうだ」
私の思想を変えよう。
シャクシャクと……大量にスイカを食べ続けている兄の側に、膝を突く。
「お兄ちゃん、お願い協力してっ! 私、自分を変えたいの。好きな人を振り向かせる為に。だから、お願い! 逆ハーレムを作るの、手伝って!」
頭を下げる。兄の返答は無情だった。
「あー。無理」
「何でっ?」
思わず聞き返す。兄は、私から視線を逸らして言う。
「オレは毎日、仕事で疲れてっから。ゲームしてる暇は、ないんだわ」
え? ゲームの話だと思ってるの?
まあ、そうか。現実で逆ハーレムを作ろうとする人なんて、きっと滅多にいないよね。がっくりと肩を落とした。
床に仰向けになる。幼馴染に見下ろされている。
「本当にいいの?」
幼馴染で、当時仲のよかった男の子……タイチ君が確認してくる。相手の瞳へ、まっすぐに頷いて見せる。
「喪女だった人生を変えたいの」
はっきりした声で伝える。
外で雷が鳴った。雨音が酷く響いている。だから……私たちの会話は、一階にいる兄には聞こえないだろう。
焦る心と、いっぱいいっぱいな気持ちで涙が出る。目の前の相手へ願う。
「手伝って」
彼、タイチ君とは……この人生では今日の朝、登校中に再会した。
家を出てすぐの細い坂道を下っていた時、後方から誰かの走る音が聞こえてきた。懐かしい心地よさにハッとする。振り返る前に、左肩を叩かれた。
「玻璃」
普段は落ち着いた印象の声が、僅かに弾んでいる気配がある。振り向いて、彼の顔を見上げる。
中学時代の男子の制服……紺のズボンと白のシャツという出で立ちで、私と同様に黒の鞄を持っている。やや茶色がかった黒髪は、サラサラで短め。前髪が少し長めで、目の上に掛かっている。
私には過去に三人、好きになった人がいる。
夫も含め、三人とも……私からの一方的な片想いだった。
「タイチ君」は、二番目に好きになった人。幼馴染の間柄だった。