時を縫う英雄譚
第四話
信号は待たせず、人はぶつからず、声は荒れない。
七時三十分、登校の流れは毎日同じだ。
一ノ瀬透は、その正確さを正しいと思えなかった。
「……今日も、何も起きないなぁ」
独り言は、誰にも届かない。
「それ、悪いことみたいに言うね」
前言撤回。
芽吹には届くようだ。
隣に並んだ朝倉芽吹が、笑いながら言った。
整った制服、自然な笑顔。
彼女はこの学園の「正常」を体現している。
「何か起きてほしいの?」
「いや」
透は首を振る。
起きてほしいわけじゃない。
だけど、何年も続く当たり前が、少し怖くなっただけ。
校舎に入る直前、視界が一瞬だけ歪んだ。
映像が欠けるような、現実が治されるような、
不可解で不思議な感覚。
透は足を止めた。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
芽吹は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
この街では、違和感を追わないのがルールだ。
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昼休み。
教室は騒がしく、透の存在は背景に溶けている。
弁当を開いた瞬間、音が消えた。
正確には、遠ざかった。
「やっと、気づいてくれた!」
声は、耳ではなく頭に直接届いた。
透は顔を上げる。
校庭の隅。
誰も立たないはずの場所に、少女がいた。
白いワンピース。
細い肩。
こちらを見る、懐かしい目。
「……あかり?」
名前を呼んだ瞬間、胸が痛んだ。
少女は小さく笑った。
「やった!まだ、覚えてたんだね、“お兄ちゃん”」
次の瞬間、教室の喧騒が戻る。
誰かが笑い、誰かが椅子を引く。
透は立ち上がり、無言で教室を出た。
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非常階段は静かだった。
「来てくれたんだ」
背後に、灯が立っていた。
輪郭は揺らぎ、今にも消えそうだ。
「……死んだはずだろ」
「うーん…まぁそんなとこだね。
だから、正確にはここにはいない」
灯は曖昧に答える。
「この街はね、ズレたものを嫌うの。
人も、記憶も、感情も」
「何を言ってるんだよ」
「お兄ちゃん」
灯は一歩引いた。
「私を、さがして」
意味を問う前に、足音が響いた。
「一ノ瀬」
振り返ると、芽吹がいた。
表情は硬く、声に温度がない。
「今、誰と話していたの?」
透は答えなかった。
答えた瞬間、灯が完全に消える気がしたからだ。
灯の姿は、すでに薄い。
「また来るね、お兄ちゃん」
その言葉だけが残り、少女は消えた。
芽吹は透を見据え、静かに告げる。
「この街で“見えてはいけないもの”を見たね」
窓の外では、完璧な昼が続いている。
(そっか)
透は、理解した。
何も起きない街で、
起きてしまったものを抱えたまま、生きることはできない。
だから。
灯を救うには、
この“正常”を壊すしかない、と。