完璧美人の私が恋したのは、眼鏡オタクのSEでした
 男は振り返りもせず、ペダルを踏み込む。
 (追いつける……!)

 優希は、最後の力で手を伸ばし、
 男の背中――服の裾を、掴んだ。

 「うっ、放せ!」

 バランスを崩した自転車が
 横倒しになる。
 二人は、そのままアスファルトに
 叩きつけられた。

 痛みが走る。
 それでも、優希は手を離さなかった。

 「泥棒……!」

 男は荒い息を吐きながら暴れる。
 その表情が、ふいに変わった。

 「……ちっ」

 次の瞬間。
 男のポケットから、
 鈍く光るものが覗いた。

 「――!」

 ナイフ。
 躊躇なく、
 優希に向かって振り下ろされる。
 (刺される――)

 そう思った瞬間だった。
 カンッ、と乾いた音。
 ナイフが、宙を舞った。
 次の瞬間、
 男の腕が、異様な角度にねじ上げられる。

 「――ぐぁっ!」

 低い声。

 「……動くな」

 男は、うつ伏せに押さえつけられ、
 完全に身動きが取れなくなった。

 そこに立っていたのは、
 屈強な体格の男――マサトだった。
 少し離れた場所では、
 清掃員の格好をした一ノ瀬が、
 静かに状況を見ている。

 「……確保しました」

 一ノ瀬は短く頷いた。

 ほどなく、
 パトカーのサイレンが近づく。
 警察に引き渡され、
 犯人は連行されていった。
  
 その場に残ったのは、
 震えが残る優希と、マサト。

 「……大丈夫か」

 マサトは、真っ直ぐに優希を見下ろした。

 「はい……」

 そう答えたものの、
 膝がまだ笑っている。

 マサトは、少しだけ表情を緩めてから、
 低く言った。

 「よくやった」
 「だがな」

 声が、厳しくなる。

 「お前、
  もしかしたら死ぬところだったぞ」

 優希は、言葉を失う。
 
 「正義感だけで動くと、
  こういう場面では命を落とす」

 逃げ場のない視線。

 「……覚えておけ」
 「次は、俺が助けに来るとは限らない」

 優希は、唇を噛みしめ、深く頷いた。

 「……はい」

 胸の奥で、
 恐怖と同時に、強烈な“違和感”が残っていた。
 (今の人達……
   ただの清掃員じゃ、ない)

 そう思った瞬間、
 一ノ瀬は何事もなかったように背を向け、
 夜の街へ溶けていった。

 この夜が、
 優希の人生を大きく変える
 “始まり”になることを、
 まだ誰も知らない。
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