丘の上の小さな 美容室
 あたしは身動きできずに男性の行動を観察する。
 男性はじっくりと髪の様子を見て、一言宣った。
「傷んでますね」
 そして離れた。
 あたしは頬を引き攣らせる。
「い、傷んでるわよ。最近忙しかったから、お手入れできなくて」
 男性は頷き回転椅子をくるりと回し「どうぞ」と座るように促す。あたしはハンドバッグを胸に抱いて恐る恐る椅子に座った。座ると同時にくるりと椅子を回転されて遠心力に体が揺れた。正面に大きな鏡。後ろにはガタイの良いハサミを持った男性。
 ここは美容室。
 なのになぜか囚人になったような気分だ。
 もう逃げられない。
 男性は籠を持ってきて鞄をどうぞ、とジェスチャーしたのでそっと鞄を入れると、その籠は近くにあったテーブルの上に置かれた。
 男性はブラシを手に取り、髪を丁寧に梳かしていく。
 あたしはそれを鏡越しにじっと見つめる。
 あたしの中の美容師の男性のイメージは、痩身で中性的でお洒落な格好をしてお喋りでチャラチャラしているが、今あたしの髪を丁寧にほぐしている男性はそれとは正反対だ。
 ガタイがよくて男らしく、黒のTシャツに古びたジーンズにスニーカー。寡黙でこつこつと髪に向き合っている姿は好感が持てた。
 じいっと食い入るように見ていると、ふと顔を上げた彼と目が合った。……気がした。前髪で隠れてわからないけど。合ったと思う。
「あ、ごめんなさい。食い入るように見ちゃって」
「いえ。構いません」
 声がいいな、この人。低くて、耳に心地よい。寡黙だけど。 
 髪を梳かし終え、男性はウェーブがかかった栗色の髪を背中に流す。 
「本日のご要望はありますか」
「ご要望。そうね……」
 あたしはウェーブヘアを指にくるくる巻きつける。
 元カレが好きだと言ったこの髪を、どうにかしたい。あいつが好きだと言ったものを徹底的に排除したい。
「がっつり、ショートカットにしてください」
 強めに言った。
「なぜですか」
 質問された。
「そーゆー気分だからよ。ベリーショートでいいわ」
 男性はウェーブヘアを優しく両手で包み込む。
 それはまるで花束を潰さないように慎重に丁寧に、壊れ物を扱うかのように。男性は髪を持ち上げ唇を寄せた。キスをするからのようなその仕草に、ぶわりと体が熱くなる。
 男性に優しく触れられるのは、何ヶ月ぶりだろう。それがたとえ髪だとしても、あたしの中の女が一気に歓喜した。
 表には、出さないけど。
 あ、だめだ。出てる。鏡の中の自分の顔は真っ赤だ。
 きゅ、と唇を噛み表情を引き締めた。
「お客さんは顔も小さいし顎のラインも綺麗なのでベリーショートもお似合いかと思いますが……」
 めっちゃ褒めてくれるわね。正直嬉しい。そしていきなりの饒舌だ。
「このふわふわの髪をバッサリ切るのはもったいないかと」
 あたしはふう、とため息を吐いた。
「ここ、美容室でしょ」
「はい」
「あなたは美容師で、あたしは客」
「そうですね」
「なら、あたしの要望をそのまま聞いてくれないかしら。あなただってご要望はありますかって聞いたでしょ。ベリーショートよ。それ一択」
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