丘の上の小さな 美容室
 心を決めたというのにそれを覆そうとする男性に苛立ちを感じて、上からの物言いになってしまう。
 けれどそれを気にしないで、男性は軽く首を傾げてウェーブヘアを撫でる。
 ……いちいち、どきりとしてしまう。首の傾げ方さえ男らしい。
「なぜ切ろうと思ったのですか。大切にしていた髪でしょう。今は傷んでますが、見れば分かります」
 そう。あたしは大切にしていた。
 元カレが好きだと言うこの猫毛のふわふわ栗髪を。
 トリートメントは欠かさなかったしちょっといいシャンプーも使っていた。好きな人が好きだと言ってくれたものを大切にしたかった。それだけだ。
 仕事でおざなりになっていたけれど、やっとお手入れできると思ったのに。振られたから、もうしなくてもいいんだけど。ベリーショートにして、全てをリセットしたかった。
「ケアが面倒になっただけ。もういいでしょ」
 うんざりだ。浮気した元カレにも、言うことを聞いてくれない美容師にも、彼氏を大切にできなかったあたしにも。
「梳いてくれてありがとう。お代は払うのでもういいです」
 あたしが立ち上がろうとすると、男性は「ちょっと待ってください」と奥に消え、すぐに何か持ってきてそれをタオルで包み込み渡してきた。
「なにこれ」
「氷です」
「なんで」
「目が腫れてます」
 ばっと鏡を見た。
 腫れてる、か?あ、ちょっと腫れてるか。
 あれだけ泣いて、目元が少し膨らんだくらいなら大した事ない。でも、せっかく持ってきてくれた氷を無下にすることはできずに、軽く頭を下げて受け取った。
 氷を目元に当てると、ひんやりして気持ちいい。
 目を冷やしながら、あたしは立ち上がろうとしたが目の前に美容師が立ちはだかり浮かせかけた腰を元に戻す。
 美容師は黙ったまま動かない。回転椅子はがっちり彼の逞しい腕に固定され、あたしが踏ん張ってもぴくりとも動かない。
 ちくしょう。なんだこの美容師は。優しいのか頑固なのか意地悪なのかさっぱり分からない。
 沈黙が続き、あたしは気まずくなり根負けして、仕方がないので元カレのことを話した。
 嫌味っぽく盛大にため息を吐いてやった。
「失恋したのよ。浮気された。その元カレが、この髪を気に入っていたのでばっさり切ってやろうと思ったのよ」
 どーだ。切る気になったか。
 ちら、と美容師を見上げるが表情はわからない。
「……なるほど。それなら」
「切ってくれる?」
「余計切れません」
「なんでよ」
「元カレのせいで自分が大事にしていたものを失うのは、なんだか悔しくありませんか?」
「…………」
 それもそうだ。
 あたしはあたしの髪を気に入っている。元カレが好きだと言ってくれて嬉しかったのは、あたしが大切にしているこの髪を元カレも褒めてくれたからだ。
 好きな人に自分の好きなものを好きと言ってくれたり褒められると嬉しいに決まってる。
 もう好きじゃないけど元カレなんか。
「いつも思います。なぜ女性が振られたとき、綺麗な髪を切りたがるのか。切る必要なんてないのに」
「いや、でもそれはさ。気持ちを切り替えるためというか、綺麗にすっぱり諦めるためというか」
「なら、俺があなたを今より綺麗にしてみせる。この髪を、あなたが大切にしていた以上に大切に扱います。そうすれば気持ちの清算、できるでしょう。元カレの言葉は忘れて、俺に預けてください」
「………………寡黙だと思っていたけど、よく喋るわね」
「久しぶりです。こんなに喋ったのは。喉が渇きました」
「お水でも飲めば」
「お客さんは、何か飲まれますか。どうぞ」
 小さなメニュー表を渡され、首を傾げた。
「ここはカフェもやってるの?」
「カラーのお客さんにお待ちいただいている間、お出ししているメニューです」
「あたし、今日カラーしないわよ」
「サービスです」
「じゃあ珈琲」
「ご用意します」
 遠慮なく注文しても、美容師は頷くだけだった。
 くるりと背を向け行ってしまった美容師の背を見送ると、あたしはメニュー表でぱたぱた顔を仰いだ。
 顔が熱い。
 あの美容師のせいだ。
 だって、あの人、愛の告白みたいな口説き方をして、ふざけんじゃないわよ。髪を自分の好きなようにいじりたいだけでしょ、きっとそう。
< 4 / 22 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop