丘の上の小さな 美容室
 あーもー今日は厄日。
 疲れた。
 もう面倒だからあの人の好きにさせよう。
 綺麗にしてくれるって言ってたし、もうお任せよ。
 気に入らなかったら文句言って値切ってやる。
 氷で目元を冷やし、珈琲を待っているとことりと鞄の置いてあるテーブルの上に珈琲が置かれて振り向いた。
 いつの間に戻ってきたのか気配を感じなかった。忍者のようだ。どうぞ、と手でジェスチャーされ、立ち上がりテーブル近くにあった黒い椅子に腰掛け珈琲を飲む。
 濃くて苦くて美味しい。
 さらにその横には小皿にクッキーが添えられて、ちらりと美容師を見た。
 美容師はグラスに波々注いだ水をごくごく飲み干し、クッキーの小皿に手を添えてどうぞ、とジェスチャーした。
 さっきと違ってまた寡黙に戻ってしまった。
 あたしはクッキーを摘み、ぱくりと口にした。
 もそもそしてる。でも懐かしい味。甘くて、でも口の中の水分が全部吸収される。
 珈琲を飲み、水分を確保する。
 クッキーと珈琲でワンセット。中和された食感が楽しくて癖になる。
「クッキーも珈琲もとても好き」
「よかった」
「どこで売ってるの?」
「売ってません。俺が作りました」
「……へえー。人は見かけによらない。あっ、ごめんなさい」
「気にしてません」
「そう」
「そろそろ、本題に入ってもいいですか」
「なんだっけ」
「ベリーショートをやめる決断はできましたか」
 クッキーを口に入れて珈琲で中和する。
 口の中は幸せだ。
 ごくん、と飲み込むと、空になった珈琲カップを受け皿に置いた。
「あなたの好きにしていいわ。ただし、気に入らなかったらお代は半分よ」
「いりません」
「え」
「俺の好きにさせてくれるならお代は結構です」
「そんなわけにはいかないわ。トリートメントとかするでしょ」
「そうですね。まずシャンプートリートメントからいきましょう。カットはその後で」
「え。ちょ。あ、待って」
 肩をがしっと掴まれシャンプー台へと移動させられた。座らさせると、膝にブランケットを掛けられた。
「椅子倒します」
「あ、はい」
 椅子が倒れると顔にガーゼを乗せられた。
 下から顔を見てやろうと思っていたのにそれが叶わず内心舌打ちした。
 ぬるま湯で髪が濡れる。シャンプーは柑橘系の香りがしてリラックスし、男性の指は頭皮に心地よく、日々の疲れもあって眠りに落ちそうになる。
 洗い流して首の下にホットタオルを当てられ、トリートメントを揉み込まれ時間を置くと、声を掛けられるまで寝てしまった。
 トリートメントを洗い流して回転椅子に座ると、ドライヤーでさっと乾かされ、やっとハサミが登場した。
「…………ベリーショート」
「諦めましょう」
 髪を丁寧に触り毛先を整えていく。鎖骨まであった髪は顎のラインまで短くなり、前髪を整え横に流す。
 ふわふわの猫毛のボブショート。
 あたしが気に入っている髪型。
 トリートメントのおかげで艶も復活し、鏡の中の自分の目が輝いていく。
「いかがですか?」
 満足だ。心が満たされている。
 さっきまで振られて泣いて、この美容室に来て目の前の美容師に脅されて最悪な日だと思っていたが、目の前の鏡に映る自分にはそんな悲しいことがあったような雰囲気はない。
 自画自賛するが、とても綺麗だ。
 しかし目の前の男に素直にそれを伝えたくなかった。あたしはわざとらふん、と鼻を鳴らした。
「この程度、どこの美容師さんだってできるわよ」
「そうでしょうか。あなたのこの輪郭と、髪質と、今日のこの服の雰囲気に合わせて今のこの髪型を選び抜けたのは自分の中ではナイスプレーだと自負しています」
「ナイスプレー」
 繰り返し、あたしはふはっと笑った。
「大満足よ。どうして、この髪型にしたの?この長さ、あたし気に入ってるの。いつもこのくらいに切るのよ」
 男性の手が伸びて、耳に髪をかけられた。耳朶には今日はしていないがピアス穴が空いている。
「ピアスが見える長さがいいかと思って」
 自然と口の端が上がった。
 この人は、あたしを見てくれている。
 元カレよりもずっと、あたしを観察してあたしに何が合うのか考えてくれた。この人のおかげで、元カレのせいで空いた心の穴が丁寧に埋められつつある。
 あたしは回転椅子から立ち上がり、なんと大胆にも美容師の首に腕を回して飛びつき抱きついた。
 衝動、だった。
「ありがとう。最高よ。今日は厄日だと思っていたけど、自分が好きだった自分に戻れたみたい。お代は払うわ。とても嬉しいから上乗せするわ」
 美容師から離れて鞄を手に取る。財布を取り出し美容師を振り向くと、彼は顔を覆って俯きしゃがみ込んでいた。
 慌てて駆け寄り肩に手を添える。
「なに、どーしたの。お腹痛いの?」
「なんでもありません」
「なんでもないって雰囲気じゃないけど」
「……いきなり抱きつくなんて、男を舐めないでいただきたい」
 見れば茶髪から見える耳が真っ赤に染まっている。
 あたしはあら、と口元を抑えにんまり笑った。
「美容師のくせに女慣れしてないのね。可愛い」
 からかってみた。
 この美容室に入ってから、この美容師にはいいだけ振り回されたので仕返しせずにはいられなかった。
 にやにや笑い耳に触れると、ぴく、と震えて長い前髪から鋭い目があたしを射抜いて体が固まる。
 美容師はあたしを持ち上げテーブルに押し倒して、両手首を抑えて覆い被さってきた。
前髪から覗く目が、熱を持っていて、ごくりと喉が鳴る。
「舐めないでいただきたい」
 低い声。この声を聞くたびに、胸がざわつき胃がきゅんとした。
 あたしの中の女が瞼を開ける。
 綺麗にしてくれた目の前の男に、あたしはなにを思っているのか。
「舐めて、ないけど」
 両手首を拘束されているので、仕方なしに足を持ち上げ男の腹の下を足の項でそっと撫でる。誘う仕草にぴくりと男が頬を引き攣らせた。
「失恋したんですよね」
「失恋したわ」
「あなたを綺麗にして、気持ちの清算をしたつもりです」
「清算できたわ。とても、清々しい気分よ」
「そうですか。なら、役得です」
「……あたしのこと、綺麗にしてどうするつもりだったのかしら」
「さあ。あわよくば、丁寧に調理したあなたを美味しくいただけたら、という下心がないわけでは、なかったですよ」
 この美容師は、いや、この男は客に手を出す常習犯なのだろうか。女を好みの味にして、口説いて喰って捨てるのだろうか。
 でも、いきなり抱きついた時の男の反応は初で可愛かった。女慣れ、していないような。でも今は、何人も食い散らかしてきたかのような狼の顔をしているけれど。
 あたしは手首を拘束している男の手に、なんとか唇を寄せ猫のようにぺろ、と舐めた。びく、と体が揺れて耳が真っ赤になる。
 可愛い。
 前髪の隙間から、鋭い目があたしを射抜く。
 熱を帯び、涎を垂らした欲情した獣の目だ。
 時折疼く、この男に対するあたしの中の女が求めてる。この男の欲が欲しいと訴える。
 欲しいと手を伸ばしてみようか。
 綺麗にして心を埋めてくれたこの美容師の男に、例え行きずりの恋だとしても、女を捧げてみようか。
 そんなあたしの気持ちを読んだかのように、美容師は顔を近づけおでこをこつんと合わせて微笑む。
「新しい男を受け入れる覚悟が、おありですか」
「新しい男、と言うよりも……あなたが欲しくなっちゃったんだけど、責任、取れる?」
 男の手があたしの頬をそっと撫でた。あたしが猫を真似て擦り寄ると、男は我慢出来ないと唇を吸う。あたしもそれに応えてぺろりと男の唇を舐め、うっとりと男の顔を見た。
「そんな目で見られると、止められない……」
「どんな目してる?」
「蕩けて、潤んでいて……俺を欲しがってる目です」
「じゃあ、止めないでよ」
「俺は、美容師です」
「知ってるけど」
「髪以外、触れるとちょっと問題が……でも、あなたの髪以外にも触れたい、のですが」
「じゃあ今はただの男になって。髪以外にも触れてほしい」
「じゃあ、あなたも今は客ではなくて」
「ただの女になるわ。お願い。もう待てない」
 男が優しいキスを繰り返し、あたしは男のキスを受け入れた。
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