丘の上の小さな 美容室
 温泉宿に着くと、女将さんが笑顔で出迎えてくれて部屋まで案内してくれた。
 予約した部屋はちょっと奮発した。温泉付きの最高級の部屋だ。夕食は部屋食で、この地域ならではの特産物をふんだんに使った日本料理。
 女将さんがごゆっくりーと行ってしまうと、あたしは美織を一瞥もせずに浴衣に着替えて大浴場へと向かった。

 結局、あたしが最初に気に入って選んだグラスは買わなかった。言い合いになり、あたしは頑固な美織に痺れを切らして購入した小鳥のグラスを持って外に出た。慌てて追いかけてきた美織を無視しててくてく歩き、美織が遠慮がちに手を握ってきたけれど口は聞かずに俯いたまま、本日お世話になる温泉宿へ到着した。
 あたしと美織の険悪な雰囲気に、最初女将さんは戸惑ったようだが、すぐにプロの営業スマイルと接客術で応対してくれた。喧嘩してます、という雰囲気なのに美織があたしの手を離してなかったので、女将さんはその様子を見てくすりと笑っていた。
 新婚夫婦の痴話喧嘩。見慣れているのかもしれない。
 
 大浴場で汗を流して脱衣所で冷たい水をごくごく飲んでも、胸のもやもやはなかなか晴れない。

 戻ったら美織にどんな顔を向ければいいかしら。
 美織ってば頑固。でもあたしも強情。せっかくの新婚旅行なのに台無しにしたくない。

 あたしは迷ったが、千紗に電話した。
 美織と喧嘩した時、大抵千紗を頼る。
 千紗は肯定も否定もせずにあたしの話を聞いて、さっぱりばっさりと解決策を用意してくれる。
「また喧嘩したのか」
「面目ない」
「グラスなんてどっちでもいいだろ」
「そうよね。どっちでもいいのよ」
「それより温泉付きの部屋に豪勢な日本料理だろ。何より新婚旅行。喧嘩している場合じゃない」
「そうよね……」
「そもそも、美織さんを一人にして大丈夫なのか」
「え?子どもじゃないんだし大丈夫でしょ」
「そうじゃない。あんな美丈夫、独身女の餌食だって言ってんの。そこの宿、女性に人気で女性客多いけど美織さんナンパされてないか?」
「…………見てくる」
「そうしな」
 電話を切り、不安に包まれながら部屋に戻る途中、小さなお土産屋さんで美織を発見した。しかし時すでに遅く、浴衣を着てお風呂上がりの色気マシマシな美織に若くて綺麗な虫が二匹、猫撫で声で愛想を振りまいていた。
 あたしはぎりぎりと歯ぎしりしながらその様子を柱の影からじいっと睨みつけた。
 美織と虫二匹はあたしには気づかずにお喋りしている。腹立たしい。
 美織の指輪が見えないのかしら。人の男に声をかけるなんて図々しい。歯ぎしりしすぎて奥歯が痛くなり頬を押さえる。
 虫の一匹がたおやかな手で美織の二の腕に触れた。
 触んないでよ。
 きゅっと唇を噛み締めた。
 
「ねえ、暇なら一緒に食事しましょ」
「いえ、妻と来ているので」
「あら、そうなの?でも見当たらないわ。良かったら夕食後にラウンジで少しお話しません?」
「いえ、妻がいますので」
 きっぱり妻、と言われて顔が熱くなる。
 美織の口から妻、と言われてなんだか照れる。嬉しい。でも虫二匹はへこたれない。頬に手を当てしとやかに笑う。獲物を狙う蛇のようだ。
「あなたいい男だもの、遊びの一つや二つしたことあるでしょ?ないの?それとも奥さんが怖いのかしら?」
 虫の挑発に、美織は真面目な顔をして即答する。
「ええ。とても怖いです」
 あたしはすん、と照れた顔を引っ込めた。
 悪かったわね怖くて。
 眉間にシワを寄せて口をへの字にすると、美織が虫をかき分けあたしのところに真っ直ぐ歩いてきた。
 え。うそ。気づいていたの?
 逃げ腰になったあたしは、でも逃げられず、美織に腰を抱かれてぴったりと寄り添う。虫二匹の視線があたしを値踏みするようにねっとりとまとわりつく。
 なによ。美織の妻はあたしよ。なんか文句あるの。
 睨んでやると、虫二匹はつい、とそっぽを向く。
 美織はあたしの旋毛にキスをする。
 あたしと虫二匹はぎょっとする。こんなとこでなにするの。美織は気にせず微笑み、虫二匹に向き直る。
「妻に愛想を尽かされないかと、いつも怖くてたまらない。あなた方と違って妻は一途で寂しがり屋で俺を心から愛してくれてます。つまらない遊びに興じて最愛の妻を失いたくない」
 歯の浮くような台詞だ。かー、と顔が熱くなる。
 美織の言葉に頬を引きつらせた虫をそのままに、美織はあたしの腰を抱き部屋に戻る。
 いつもと違う、温泉の香りがする美織から色気がだだ漏れて、あたしはきゅっと唇を噛んだ。
 部屋に戻ると、美織はあたしを抱きしめたまま顎を持ち上げキスをする。触れるだけかと思ったら予想以上に長いキスで、離してくれなくて、あたしは美織の浴衣を握りしめ美織に応えるしかなかった。
 やっとキスが終わると、美織が切なそうに見つめてきてどきりとする。
「まだ、怒ってますか」
 あたしは息を整え首を振る。
「怒ってないわ。その、大人気なくてごめんなさい。美織は、あたしのこと考えてくれたのにそれを受け入れなかったこと、後悔してる。たかがグラスのことなのに」
「たかがじゃありません。深青が、切子グラスが欲しいって言ったんです。夫として妻の願いを叶えるのは当然ですよ。それなのに、逆に俺に気を使わせてしまってすいません」
「あたしは、美織が気に入ったものを買いたいって思っただけだもの。だから、切子グラスはこれがいいわ」
「それなんですが」
「なによ。まだなにかあるの?」
「俺たち、大人じゃないですか」
「はあ。大人ね」
「なので、どちらか一つじゃなくてどっちも買えばよかったんです。そして交互に使えばいい」
「……それも、そうね」
「明日買いに行きましょう。仲直りです」
 ちゅ、とおでこにキスをされ、あたしは口にして欲しくて目を閉じたが、美織が「そろそろ夕食が来るので……」と言ってしてくれなかったので恥ずかしくて顔を真っ赤にしてしまった。美織はあたしの様子を見て蕩けた笑顔を向け、耳元で「あとでそこの温泉に入った後にたくさんしてあげますよ」と艶のある声であたしを口説いた。

 翌日、ガラスの店へと再び赴き、あたしが最初に気に入ったグラスをレジに持っていくと、年配の店主はにこりと優しく微笑んでくれた。 
< 62 / 64 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop