丘の上の小さな 美容室
「今日、仕事は大丈夫ですか」
「午後からだから。あなたは?」
「十一時から予約が入ってます」
「そう。じゃあ珈琲いただいたら帰るわ。あ、そうだ。昨日のお代」
「いりません。俺の好きにしたので」
 美容師の指があたしの髪を優しく梳く。
 前髪から覗く目が、優しく細められてとくん、と胸が高鳴った。
「…………あの、ありがとう。色々。失恋の痛手は、だいぶ癒えたわ」
「そう、ですか。良かった」
「あなたの腕は確かだし、また切ってもらおうかしら」
「勿論です。予約していきますか?」
「そうね。そうする」
「一月後でどうですか」
「そうね。一月後の、同じ時間で」
 美容師はスマホを取り出し予約を入れた。
 そして珈琲をことりと目の前に置いてくれる。
 昨日のクッキーはないのかしらと思っていたら、いつの間にか小皿の上にクッキーが乗せられ珈琲の隣りに添えられていたので「ふっ」と笑うと美容師は微笑み珈琲を飲む。
「食べたいだろうと思って」
「あなたって不思議。この髪型も、クッキーも珈琲も、全部あたし好み。まるで知っていたみたい」
「知らないこともありますよ」
「なに?」
「名前」
「あー、そうね。深青よ。深い青って書いて、みお。ここの美容室と同じ名前」
「俺も、みおっていいます。美しいに織る、で、美織」
「やだ。同じ名前。そっか。美容室の名前はあなたか」
「偶然ですね」
「本当。おかしい」
 ふふ、と笑う。すると影が落ちてきたと思うと、口を塞がれた。お互い珈琲の味なので、苦みが増してさらに美味しい。
 美織のキスは、あたし好みだ。
「また、来てくださいね」
 唇を離すと、寂しそうに眉根を寄せる美織の表情に胸が締め付けられる。あたしは美織の腰に腕を回して体を密着させ、安心させるように微笑んだ。
「来るわよ。予約したんだから」
「何かあったらすぐ来てください。髪だけじゃなくて、あなたに、深青に触れたいから」
 両頬に交互にキスをして、唇を喰む。
 こんなにキスが上手いのに、女慣れしてないなんて変な話だわ。昨夜の行為だって上手すぎる。やっぱり、手練なのかしら。
 ちら、と壁時計に目をやると、九時半を回っている。
 あたしが美織の胸を押して離れると、美織は戸惑ったように目を泳がせた。
「どうしました?」
「そろそろ帰るわ」
「名残惜しいですね。帰したくない」
「なによそれ。じゃあ、またね」
「帰り際素っ気なくないですか」
「こんなもんでしょ。じゃあね」
「もう一回」
「え」
 ぐいと肩を掴まれ、唇を喰まれて濃厚なキスをすると、美織はぺろりと自身の唇を舐め口の端を上げた。
「また」
「……ええ」
 あたしは逃げるようにキッチンをあとにした。
 今のあたしの顔は、きっととてもだらしない。蕩けて赤くて見せられない。
 美織の男としての魅力があたしを狂わせる。

 やっぱり、昨日は厄日だったのか。
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