隣にいる理由〜選ばれるはずのなかった私が、あなたの妻になるまで〜

プロローグ

 朝の公園は、まだ街の匂いが混じらない。
 土と草と、夜の名残りの湿気。それだけが肺に入ってくるこの時間が、私は好きだった。

 きっとこんなふうに感じているのは私くらいだろう。

 昔から、他人が感じない『匂い』に敏感な私は、ほかの人から特異な目で見られることを恐れ、言葉を飲み込む癖がある。
 きっとこんなことを口にしても、みんなはそんなものを感じないし、そんなふうに感じる私のことを気持ち悪がるのだ。

 みんなが感じないことは、口にしない、態度に出さない。そのように自分を偽って、思春期を過ごしてきた。
 そして出来上がった自分の性格は、目立つのが苦手で自己肯定感は低い。けれど、だれも感じることのない匂いのせいで、観察力は研ぎ澄まされている。

 そして今日も、ほかの人が感じない匂いに包まれながら、決まったコースを、決まった速さで歩く。
 誰かのためでも、何かのためでもない。
 ただ、今日という一日を無事に始めるための、私なりの習慣だ。

 私、楠野(くすの)(かおる)は、この公園近くにある高級ホテル『Saint Claire Residence & Suites《サン・クレア・レジデンスアンドスイーツ》と一体化したレジデンス棟に併設された、会員制フィットネス施設|Saint Claire Wellness & Fitness Salon《サン・クレア・ウェルネスアンドフィットネスサロン》でコンシェルジュとして勤務している。
 この仕事に就いた理由は、派遣からの正社員登用試験に合格したからだ。

 大学時代就活に失敗し、派遣会社に登録した。
 派遣先がこのフィットネスで、3年間の派遣で勤務態度を認められ、正社員登用試験を受け、無事採用された。
 
 給料面や就労条件、派遣の頃も魅力的だったけれど、正社員になれば賞与もある。安定を望んでいた私には、最高の会社だ。
 特別身体を動かすことが好きということではないけれど、フィットネスサロン勤務ということもあり、最初にこの職場に派遣されてから健康について考えるようになった。
 自分の健康面はもとより、居住者やホテルの長期滞在者の生活をサポートするのも、私たちコンシェルジュの仕事の一つだ。

 大学入学を機に家を出て自立した。
 両親は私が小さい頃に離婚して、母子家庭で育ったため、母には苦労をかけてきた。
 それだけに、健康には人一倍関心がある。
 
 私には普段からの運動が習慣になかったため、始業時間の前に無理のないウォーキングで身体を慣らしていた。
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