恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
 充輝は来海の頬に触れていた手を、そっと下ろしてから静かに口を開く。

「……休みが明けたら、もう一度伝えるよ。縁談を受ける気はないって」

 それは低く落ち着いた声だった。

「先方にも、俺から謝罪の連絡をするつもりだ」

 来海はその言葉を黙って聞いていたが、続いた言葉に思わず息を呑む。

「それから……会社も辞める。当然、反対はされるだろうけど……もう決めたんだ」

 そして来海を見つめる充輝の瞳は、一つの迷いも無かった。

「……辞めて、その……宛はあるの?」
「一応ね」

 来海の問いに充輝は頷いた。

「大学時代の先輩で、今は自分で会社を立ち上げてる人がいるんだ。この前連絡を取って、近いうちに一度会ってもらうことになってる」
「そうなんだ……」
「だから、まずはその人を頼ってみるつもり」

 勿論、すぐに仕事が決まる保証はないし、生活がどうなるかも分からない。

 それでも、望まない未来を受け入れるより、ずっといいと充輝は覚悟を決めたのだ。

「少し時間は掛かるかもしれない……でも、ちゃんと仕事を見つけて、生活を整える」

 そして一瞬だけ言葉を止めた後、静かに言った。

「だから……全ての準備が整うまで、来海には待っていてほしい」

 来海の胸がきゅっと締め付けられる。

(……一緒に、行きたい)

 そう言いたかった。

 充輝が全てを捨てる覚悟をしているのと同様に来海も同じ覚悟だったから。

 けれど、その言葉は喉まで出かかって止まった。

 仕事も生活も何もかも放り出して駆け落ちのように逃げる、それがどれだけ現実的ではないか来海にも分かっている。

 充輝はこれから生活の基盤を作ろうとしていて、そこへ無計画に付いていくのは彼を困らせるだけだと。

 来海は小さく息を吐き、顔を上げた。

「……充輝が決めたことなら…………私は、信じて待ってる」

 その言葉に充輝の表情を緩ませながら、来海を抱き寄せる。

「ありがとう……」
「うん」

 強く離さないように抱き締める腕に力を込める。

「……出来るだけ早く迎えに行くから」

 耳元で囁かれたその言葉に、来海は涙を流さないよう静かにそっと目を閉じた。
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