恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
 翌日、会社は昨日以上に朝から落ち着かない空気に包まれていた。

 発端は大輔が社長に呼び出されたことだ。

「聞いた? 昨日真白さん社長室に呼ばれたらしいよ」
「え、それって……もしかして後継ぎの話?」

 ひそひそと交わされる声は次第に尾ひれをつけ、やがて一つの“それらしい話”として広がっていく。

『羽柴くんが後継ぎの座を降りて、その代わりに真白さんが候補に挙がったらしい』
『それが原因で羽柴くんと社長が衝突したのではないか』

 そんな確証のない話ばかりが飛び交い、社内の空気がざわついていた。

 そんな中、来海は一人静かにデスクへ向かっていた。

(……連絡来ないな)

 スマートフォンを確認しても充輝からの連絡はない。

“極力連絡は控える”と言われていたことは分かっている。

 それでも、せめて一日に一度くらい無事だと分かる一言は欲しかった。

(……私から、連絡してみようかな……)

 一瞬、そんな考えがよぎるけれど、

(だめ……声、聞いたら……きっと、余計に……)

 声を聞いてしまえば、きっともっと苦しくなると分かっているから、来海は小さく息を吐くと、その考えを押し込めた。

 日中は耳に入ってくる噂話を意識的に遮りながら仕事に集中し、考える時間を作らないようにすることで会いたい気持ちをどうにか抑えていた。

 それでも定時が近づくにつれて不安は増していく。

(帰ったら……また一人で考えちゃう……)

 そう思った来海は自ら残業を申し出た。

 少しでも何も考えずに済む時間を延ばしたかったから。

 そして、残業を終えた来海が駅へ向かって一人歩いているとふいに名前を呼ばれ、

「向坂さん」

 振り返ると、そこには大輔が立っていた。
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