恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
「まず、是枝さんから聞いたけど……俺が出した辞表は破棄したんだよな?」

 静かな口調で切り出した充輝は真正面から父親を見据え、

「別にそれでもいいけど……前にも話した通り、俺は縁談を受けるつもりも海外へ行く気もない」

 はっきりと言い切る。

 その言葉を受けた父親は眉一つ動かさずに言い放った。

「何度も同じことを言わせるな。お前は私の言う通りにしていればいい。羽柴家の人間としての役割を果たせ」

 その態度はこれまでと何一つ変わらず、場の空気が更に重く沈んでいく。

 その中で、

「……横から失礼します」

 穏やかだがはっきりとした声が割って入った。

 充輝の隣に座っていた裕太が静かに頭を下げる。

「私は充輝くんと大学時代からの付き合いがある、駒橋 裕太と申します。本来であれば部外者の私がこの場に来ることも口を挟むことも筋違いかもしれません。ですが……第三者の意見として、一つだけ言わせてください」

 空気が張り詰める中、裕太は言葉を続けていく。

「充輝くんは、後継ぎである前に……一人の人間です。意思があります。親だからといって一方的に意見を押し付けるやり方は……違うのではないでしょうか? 政略結婚をしなければ企業は拡大できないのでしょうか?」

 その言葉に父親の目が細められる。

「私も経営者として仕事をしていますが……決してそんなことはないと思います。HSBホールディングスは今でも十分に立派な企業です……息子さんを犠牲にする以外のやり方で、これからも成長させていけないのでしょうか?」

 裕太の言葉に場の空気がより一層張り詰めていき、父親はゆっくりと口を開く。

「……経営者がそんな甘いことを言っているようでは、成長など望めん」

 そして視線が鋭く充輝へと向けられる。

「今回の話は、これまでとは比べ物にならない規模の成長が見込める。他に取られるわけにはいかんのだ。充輝、いい加減、我儘を言うのはやめろ」

 その言葉には微塵も揺らぎがなく、

「……はぁ……」

 そんな父親を前に充輝は小さく溜め息を吐く。

(やっぱり、何を言っても分かり合える相手じゃない、もういいや)

 そう思いながら再び口を開こうとした――その時、

「……社長」

 それまで一言も発さなかった是枝が静かに声を上げ、全員の視線が一斉に向けられる。

 そして次の瞬間、

「いい加減にしてください」

 はっきりとしたその言葉が、場の空気を一変させた。
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