恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
触れ合う先にあるもの
 エマとの一件以来、来海と充輝の関係については、社内でたびたび噂が囁かれていた。

 けれどエマが研修期間を終えて帰国してからは、その声も次第に落ち着いていくと共に今では多くの人が、「やっぱり羽柴くんの相手は向坂さんなのだろう」「二人は本格的に交際を始めたのではないか」と半ば当然のように受け取っていた。

 ただ、交際を始めたからといって何かが劇的に変わったわけではない。

 二人はこれまでと変わらず業務に真摯に向き合い、職場で顔を合わせても私的な会話はほとんど交わさなかった。

 社内恋愛だからこそ、意識的に一線を引いていたのだ。

 それでも、誰かをここまで強く想うのは初めてだった充輝にとって想いが届き恋人になれた今はただ視線が合うだけで胸が満たされ、静かな幸福を噛みしめる日々だった。

(少しでいいから……話したい。でも、少しじゃ足りなくなりそうだよな……)

 そんな思いがふと胸をよぎり、社内ですれ違った際、つい視線を逸らすのが遅れてしまうこともある。

 実は、それは来海の方も同じだった。

 偶然会えた嬉しさに胸の鼓動が早まるのを必死に抑え、何でもない顔を作っているだけなのだ。

 そんなある日のこと。

 人通りのない通路ですれ違った瞬間、充輝はごく自然な動作を装って来海の腕にそっと触れると、そのまま人の視線の届かない死角へ連れていく。

「羽柴くん……?」
「……少しだけ」

 そう低く囁かれた来海は一瞬迷ったあと、小さく頷いた。

「でも……誰か来たら……」
「大丈夫。今なら誰も来ない」

 そして、壁に背を預けた来海へ一歩近づいた充輝はほんの一瞬、唇が触れるか触れないかほどの軽いキスを落とす。

「……なんだか、すごくいけないことをしてるみたい……」
「そうだね」

 一度触れてしまえば、もっと欲しくなる。

 それを分かっているからこそ充輝はすぐに距離を取った。

 そして名残惜しげな視線だけを残すと二人は何事もなかったかのように通路へ戻り、それぞれの部署へと歩き出す。

 去り際、来海は振り返って充輝の背中を見送りながら胸元に手を当てる。

(ほんの一瞬だったのに……すごくドキドキしてる……)

 異性との交際は人生で二度目とあって長い空白を経て芽生えた恋は、ほんの些細な出来事でさえ来海の心を燃え上がらせていた。
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