恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
「ここさ、前から連れてきたかったんだ」

 少し照れたようにそう言う横顔に来海は胸の奥がくすぐったくなる。

 聞けば、昔家族で訪れた思い出のある店らしく、料理の感想を交わしながら過去の話をぽつりぽつりと語る充輝を来海は微笑みながら聞いていた。

 思っていた以上に自然で心地いい時間を過ごした二人の距離は一日を通して確実に近づいていく。

 食事を終えて再び車へ乗り込み、そろそろ帰ろうかと話題になったその時、充輝はふと真剣な表情を見せながら口を開いた。

「……本当言うと、今日は……帰したくない」

 その言葉に来海の心が大きく揺れる。

 付き合ってから手を繋ぎ、抱き合い、キスを交わすことはあっても、それ以上には進まなかった。

 それが自分の抱える異性へのトラウマへの配慮だと分かっていたからこそ、来海は申し訳なさと同時に充輝の優しさに甘えてきたけれど、このままでいいとは思えなかった。

 優しさに甘え続けるのではなく、きちんと向き合わなければならない──心のどこかで、ずっとそう思っていた。

 だからこそ、今の充輝のその一言は来海の中にあった迷いを静かに消し去った。

「……私も、帰りたく、ない……」

 その瞬間、充輝の中に残っていた理性が音を立てて崩れていく。

「それ、意味分かって言ってる?」
「……うん」
「分かった。それじゃあ今日は、もう帰さないから」

 そう告げると充輝は来海のアパートへは向かわずに自分の住むマンションへ向かって走らせていく。

 車内に再び静寂が訪れる中、来海の胸は緊張と不安でいっぱいになり、心臓の鼓動が速まって息が浅くなる。

 それでも、不思議と後悔はなかった。

 隣でハンドルを握る充輝の横顔を見つめながら来海は自分で選んだ今の状況を受け止め、必死に心を落ち着かせていた。
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