恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
「会社の為に結婚しろ? 付き合ってる相手は愛人にしろなんて、どうかしてる。そんなの有り得ないだろ」

 机越しに父親を睨みつけても向こうは書類に視線を落としたまま、まるで雑音でも聞き流すような態度を崩さない。

 指先で紙を揃える音だけがやけに乾いて響く。

「お前は羽柴家の人間だ。私の言うことが聞けない、嫌だと言うなら仕事を辞めて、家からも出て行け。それだけだ」

 あまりにも当然のように言い放たれた充輝は言葉を失った。

 そして、父親(この人)には何を言っても通じない、そう確信したことでこれ以上何かを言うのを諦めた。

「……そうかよ」

 吐き捨てるように言った充輝は書斎の扉を開ける手に無意識に力がこもり、勢いのまま廊下へ飛び出した。

 胸の内で渦巻くのは怒りだけではなかった。

 息苦しさを振り払うようにネクタイを緩め、荷物を手にした充輝は母親に挨拶もせずに家を出て行った。

 外気に触れた瞬間、ハァっと深く大きなため息が零れていく。

 そのまま車に乗った充輝は自宅マンションへは帰らず、来海のアパートへ向かっていった。

 時刻は午後十時半過ぎ。

 来海が自室で寛いでいると、部屋にインターホンが鳴り響く。

 来客予定も無く、このような時間であることに恐怖を感じながらモニターを確認すると、

「え……充輝?」

 実家に行くと言っていた充輝の姿がそこにはあって、驚いた来海は急いで玄関へ駆けていく。

「どうしたの? こんな時間に。今日は実家に行くって――」

 ドアが開き、来海の柔らかな声に、充輝の中で張り詰めていたものが一気に緩みそうになる。

 けれど、ここで口を開けば全て零れてしまいそうで充輝は言葉を飲み込んだ。

「……少し、顔見たくなっただけ」
「それだけ? 何かあったんじゃないの?」

 心配そうに覗き込まれ、充輝の胸が痛む。

 海外支社の話も政略結婚のことも今はとてもじゃないけれど口には出来ず、ただ顔が見たくなったとだけ伝える充輝を前にした来海は何かを言い掛けるもそれを止めた。
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