恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
「……あの、上がる?」
「うん」

 短い会話だけで充輝が何かを抱えていることは十分に伝わってきたけれど、今は問いただすよりもそっとしておく方がいい――そう判断した来海は何も聞かずに彼を部屋へ招き入れる。

「今、何か――」

 飲み物でも用意するから――そう続けるはずだった言葉は背後から伸びてきた腕によって遮られた。

 突然後ろから抱き締められた来海は困惑する。

「……充輝……?」
「少しだけ、このままでいさせて」

 耳元で囁かれた声は酷く掠れていた。

 滅多に弱音を見せない充輝のそんな声音に来海はそれ以上何も言えなくなり、ただ静かに頷いて背中を預けた。

 互いの体温がゆっくりと重なっていく中、充輝の頭の中では何度も同じ言葉が過ぎっていく。

 それからどれほどの時間が経ったのか、抱き締める腕の力がほんの少しだけ緩むと充輝はポツリと呟くように言葉を紡ぐ。

「……もし俺が……仕事を辞めて、家からも出ることになった時――例え全部捨てることになっても、来海は俺に……付いてきてくれる?」

 静まり返った部屋に、その問いだけが落ちる。

「……え?」

 突然の言葉に来海は驚き、首を後ろへ傾けて充輝の顔を見上げた。

 真剣そのものの表情に胸がざわついていく。

「どういうこと? 急に……何があったの?」

 問いかける声は自然と強張っていた。

 充輝は一瞬視線を彷徨わせると、観念したように口を開く。

「親父に言われたんだ。海外支社は俺に任せるって」
「え……?」
「しかも、それだけじゃない。向こうの企業と関係を強くするために……その企業の娘と結婚しろって……言われたんだ」
「そんな……」

 来海は息を呑む。

 海外支社へ戻ることだけでも十分に大きな話なのに、政略結婚にまで話が大きくなっているとは思いもしなかったから。

 何か言わなければと思うのに、すぐに言葉が出てこない。

 何も考え無くて良いと言うのなら、「どこへでも付いていく」と答えるだろう。

 だけど現実問題、そんなに簡単なことでは無いことを分かっているからこそ、何て答えることが正解なのか分からない来海は立ち尽くすことしか出来なかった。
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