光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜

第4話 近づいたのに、遠いまま

惚れるなと言われた。
それなのに、
彼の音だけが、あたしを離してくれない。

 
名取さんは、あの日から少しだけ変だ。
……たぶん。

前と同じように、
同じ時間に、
同じ場所で会っている。

それなのに、少しだけ、近くに感じる。
 
「遅い」
「まだ五分前です」
「俺の体感では遅い」
そんな理不尽なことを言いながら
鍵盤を指で滑らしていく。

変わらない。
口は相変わらず悪い。
なのに。
 
(……近い)
 
肩が触れるほどじゃない。
でも、前より一歩、そばにいる。

その“一歩”が、
どうしようもなくあたしの心をかき乱す。

「……弾かねーの?」

「……弾きます」
 
鍵盤に向かうと、
すぐ後ろに名取さんの気配。

それだけで、呼吸の仕方を忘れるかのよう。

(また……)

でもあの時の言葉が、頭をよぎる。 

――惚れるなよ。
 
「力、抜け」

低い声が、耳のすぐ後ろを泳ぐ。
びくっと肩が跳ねる。

「……はいっ」

音を出す前から、心臓がうるさい。
集中しなきゃ。
練習なんだから。
 
……なのに。

(……聴かれてる)
 
いつもと同じはずなのに。

音を間違えるたび、
背中が熱くなる。
 
「……さっきより、マシ」

それ、褒めてるんですか。

聞こうとして、やめた。
期待するのが、怖い。

交代しようと椅子から立つと、名取さんが、自然と隣に立っていた。

「……近くないですか?」

「そーか?」
 
近いです。
十分すぎるほど。

でも、言えない。

「……」

何も言えずにいると、
名取さんが
ふっと視線を逸らした。
 
「……今日は、雨降りそうだな」

窓の外を見る横顔。
いつもより、静かな練習室。
 
「そうですね」
 
沈黙が落ちる。
前なら、この沈黙は、心地よかった。

でも今は違う。

言葉を、

音を、

探してしまう。
 
(……聞きたい)
 
でも、それを聞いたら壊れそうで。
 
――惚れるなよ。

あの言葉は、あたしの奥深くに根付いたまま。
 
名取さんがピアノに座る。

深く、息を吐く。

――あの癖。

名取さんの音が、
世界ごと、
部屋を満たす。
 
今日は、
少し、優しい。

胸の奥が、じんわり熱くなる。
泣けてくるほど、
優しくて、
好きな音。

(……ずるい)

惚れるなって言った人が
弾く音じゃない。

弾き終わったあと、
名取さんは、こちらを見なかった。

「……帰るか」

「……はい」
 
鍵盤に残った余韻だけが、
まだ揺れている。 

部屋を出る直前、
ふと、名取さんが言った。
 
「……また、弾くか」

独り言ともとれるほど微かで、
でもあたしに届く声。 

足が止まる。

振り返ると、もう窓のほうを向いていた。

(……それは
来い、ってこと?)
 
惚れるなって言ったくせに。

期待してしまう。

してはいけないって、
わかってるのに。
 
「……はい」

小さく返事をして、廊下に出る。

背中が、
少しだけ、軽かった。

それが、
嬉しくて。

それが、
怖かった。

惚れるなと言われたまま、
あたしは今日も、
彼の旋律に
足を止めてしまう。

外はいつの間にか、
雨が降っていた。
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