光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜

第5話 雨音に、逃げ場はない


外に出た瞬間、わかった。

「……降ってる」

ぽつり、ぽつり。
さっきまで気配だけだった雨が、気づいたら音になっていた。

名取さんは、空を見上げることもなく言う。

「本降りになるな」

「……ですよね」

傘は、ない。
持ってきていない。

(……帰れる、かな)

そう思ったのに、足は自然と月嶺寮の庇の下に留まっていた。
名取さんも、同じように動かない。

「……待つか」

「……はい」

短いやり取り。
でも、その一言で、帰らない理由ができてしまった。

雨脚は、思ったより早くなった。
曇天から降り注ぐ雨粒が、
容赦なく地面を打つ。

「……すごいですね」

「だな」

それだけ言って、名取さんは壁にもたれた。

肩と肩の距離。
触れないけど、近い。

(……どうしよう、肩……ふれそう)

でも、逃げ場がない。
雨音の激しさが、
外の世界を遮断してくれる。

誰も来ない。

誰にも見られない。

そんな錯覚。

「……濡れるぞ」

もう少し名取さんのほうに寄るように、と言われた。
自然と、距離が詰まる。

わかってる。
名取さんに他意がないことくらい。
あたしが濡れないよう、
気遣って言ってくれたことくらい。

でも、その小さな優しさだけで、
心はうるさいくらい跳ねてしまう。

『……惚れるなよ』

あの言葉が、今も、ここにあるのに。

「……さっきの音」

突然、名取さんが言った。

「え?」

「さっき弾いてたとこ。
前より、ちゃんと音になってた」

一瞬、言葉が出なかった。

――それ、ちゃんと褒めてるやつじゃないですか。

「……ありがとうございます」

声が、少しだけ上ずる。

名取さんは、あたしを見ない。
でも、その横顔は、
どこか柔らかく、あたたかい。

「……雨、嫌いですか?」

勇気を出して、聞いてみる。

「別に」

即答。

聞かれてもないのに、
勝手にあたしが続けてしまう。

「晴れの日より、音が響くような気がして
……あたしは、好きです」

言い終わったあとで、
勝手に恥ずかしくなる。

名取さんは、少しだけ考えるように間を置いた。

「……それは、あるな」

胸が、きゅっとする。

同じことを感じてる。
ただそれだけで、嬉しくて、苦しい。

まだ、雨音は強いまま。

「……帰れそうにないな」

名取さんが、ぽつりと呟く。

「……ですね」

言いながら、
なぜか、ほっとしてしまった。

(……ダメだ)

こんなことで、安心しちゃ。

惚れるなって、言われてるのに。

沈黙。
雨音。
近い体温。

名取さんが、ふっと息を吐いた。

「……中、戻るか」

「え?」

「ここ、冷える」

理由は、もっともだ。
でも、それ以上の意味を、
勝手に期待して、
探してしまう。

「……はい」

部屋に戻ると、外の音が少し遠くなる。

窓を打つ雨。
滴り落ちる雫。

ピアノの前に立つ名取さん。

「弾くか」

その一言に、心が跳ねる。

鍵盤に触れた瞬間、
雨と溶け合うような旋律が流れ出す。

静かで、深くて、
胸の奥に沈んでくる音。

(……逃げられない)

惚れるなって言われたのに。
雨の日に、こんな音――反則だ。

弾き終えたあと、
名取さんは、あたしを見た。

ほんの一瞬。
でも、確かに、目が合った。

「……寒くないか」

「……大丈夫、です」

嘘。

寒いのは、たぶん、心のほう。

雨は、まだ止まない。

帰れない。
逃げられない。

それなのに、名取さんは、何も言わない。

言わないまま、
距離だけが、
少しずつ近づいていく。

――それが、一番、残酷だった。
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