氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
しばらくして、神崎事務長が現れた。
四十代半ばくらいの男性。
細身で、髪をきっちり撫でつけている。
白衣ではなく、グレーのジャケット姿だった。
「事務長の神崎です。昨日は大変だったようで」
その言い方が、少し引っかかった。
大変だったようで。
藤堂さんが救急搬送されたことを指しているのか。
警察が来たことを指しているのか。
私は名刺を受け取りながら尋ねた。
「藤堂誠司さんの件で確認があります」
「もちろん、できる範囲で協力します。ただ、患者様の個人情報がありますので」
「正式な手続きが必要なものは、こちらも承知しています。今日は、任意で確認できる範囲です」
「でしたら」
神崎さんは穏やかに頷いた。
穏やかすぎる。
沢渡先生が口を開いた。
「薬剤管理システムの管理者アカウントについて教えてください」
神崎さんの視線が、先生へ移る。
「あなたは?」
「沢渡です。法医学者です」
「法医学者の先生が、システムを?」
「薬剤管理の記録を見る必要がある」
淡々とした声。
神崎さんは一瞬、唇を引き結んだ。
「管理者アカウントは、院長、私、看護主任が利用できます。ただし、原則として院長の指示に基づいています」
「原則として?」
先生が拾う。
神崎さんは笑みを崩さない。
「小さなクリニックですから、現場の判断で後から入力を整えることはあります」
「薬剤名を削除することも?」
空気が変わった。
受付の女性が、奥で書類を落とした音がした。
神崎さんの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「何のことでしょう」
「夏目莉子さんの薬剤管理表です。睡眠導入剤の欄が作成され、削除されている」
私は隣で息を止めた。
先生がかなり踏み込んでいる。
「入力ミスではないでしょうか」
「誰の?」
「そこまでは、すぐには」
「管理者アカウントからの入力です。院長、あなた、橘看護主任。この三名の誰かが操作した」
神崎さんのこめかみが、ぴくりと動いた。
「先生は、まるでこちらが何か不正をしたようにおっしゃる」
「不正かどうかを確認している」
「警察の方も、そういうお考えですか」
神崎さんの視線が私へ向く。
挑むような目だった。
私は一歩前へ出た。
「三名の方が亡くなり、藤堂さんは命を落としかけました。その全員に、白峰メディカルケアが関わっています。薬剤管理表に不自然な修正があるなら、確認するのは当然です」
「偶然でしょう」
「偶然で終わらせるには、数が多いです」
「あなた方はいつもそうだ。小さなミスを大事件にしたがる」
「小さなミスで人が死ぬこともあります」
神崎さんの目が冷えた。
先生が横で小さく息を吸ったのがわかった。
止めようとしたのかもしれない。
でも、私は止まれなかった。
眠っているみたいだった、と泣いた家族の声。
病院のベッドで「眠らせるな」とうめいた藤堂さんの声。
誰かが意図しているなら、次もある。
「神崎さん。藤堂さんの自宅に、一昨日の夕方、白峰メディカルケアの関係者が訪問しています。訪問予定は昨日の朝のはずでした。誰が行ったんですか」
「知りません」
「確認してください」
「今すぐには無理です」
「なぜですか。電子記録で管理しているんですよね」
「個別の訪問は、看護部の管理です」
「橘看護主任ですか」
神崎さんの顔が、はっきり強張った。
「刑事さん」
声が低くなる。
「憶測でスタッフを傷つけないでいただきたい」
「傷つけたくないから、早く事実を確認したいんです」
「お引き取りください」
神崎さんが踵を返す。
私は反射的に前へ出た。
「待ってください。夏目さんの削除履歴だけでも――」
腕を伸ばしたわけではない。
ただ、進路をふさいだ。
その瞬間、神崎さんが私の肩を強く払った。
「どいてください」
体勢が崩れた。
待合室の椅子の脚に踵が引っかかる。
視界が傾く。
まずい。
そう思った瞬間、強い手が私の腕を掴んだ。
ぐい、と引き戻される。
背中が、誰かの胸元にぶつかる寸前で止まった。
沢渡先生だった。
「今井刑事」
低い声。
冷たい声。
でも、掴まれた腕は熱かった。
思っていたより大きな手だった。
指が、私の上腕をしっかり支えている。
袖口から覗く手首。
無駄のない骨ばった指。
その手が、驚くほど温かい。
氷の法医学者。
そう呼ばれる人の手なのに。
私を転ばせないために掴んだ手は、ちゃんと生きている温度をしていた。
「す、すみません」
私は慌てて体勢を戻す。
先生はすぐに手を離した。
離された場所だけ、まだ熱が残っている。
神崎さんは一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに表情を整えた。
「失礼しました。強く当たったつもりは」
「彼女が刑事でなければ、転倒していた」
先生が言った。
声は淡々としていた。
けれど、いつもより温度が低い。
神崎さんの顔色が変わる。
「それは」
「今井刑事。今日は引こう」
先生は私に言った。
「でも」
「今日は、引く」
二度目の声に、逆らえなかった。
私は唇を噛み、頷いた。
四十代半ばくらいの男性。
細身で、髪をきっちり撫でつけている。
白衣ではなく、グレーのジャケット姿だった。
「事務長の神崎です。昨日は大変だったようで」
その言い方が、少し引っかかった。
大変だったようで。
藤堂さんが救急搬送されたことを指しているのか。
警察が来たことを指しているのか。
私は名刺を受け取りながら尋ねた。
「藤堂誠司さんの件で確認があります」
「もちろん、できる範囲で協力します。ただ、患者様の個人情報がありますので」
「正式な手続きが必要なものは、こちらも承知しています。今日は、任意で確認できる範囲です」
「でしたら」
神崎さんは穏やかに頷いた。
穏やかすぎる。
沢渡先生が口を開いた。
「薬剤管理システムの管理者アカウントについて教えてください」
神崎さんの視線が、先生へ移る。
「あなたは?」
「沢渡です。法医学者です」
「法医学者の先生が、システムを?」
「薬剤管理の記録を見る必要がある」
淡々とした声。
神崎さんは一瞬、唇を引き結んだ。
「管理者アカウントは、院長、私、看護主任が利用できます。ただし、原則として院長の指示に基づいています」
「原則として?」
先生が拾う。
神崎さんは笑みを崩さない。
「小さなクリニックですから、現場の判断で後から入力を整えることはあります」
「薬剤名を削除することも?」
空気が変わった。
受付の女性が、奥で書類を落とした音がした。
神崎さんの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「何のことでしょう」
「夏目莉子さんの薬剤管理表です。睡眠導入剤の欄が作成され、削除されている」
私は隣で息を止めた。
先生がかなり踏み込んでいる。
「入力ミスではないでしょうか」
「誰の?」
「そこまでは、すぐには」
「管理者アカウントからの入力です。院長、あなた、橘看護主任。この三名の誰かが操作した」
神崎さんのこめかみが、ぴくりと動いた。
「先生は、まるでこちらが何か不正をしたようにおっしゃる」
「不正かどうかを確認している」
「警察の方も、そういうお考えですか」
神崎さんの視線が私へ向く。
挑むような目だった。
私は一歩前へ出た。
「三名の方が亡くなり、藤堂さんは命を落としかけました。その全員に、白峰メディカルケアが関わっています。薬剤管理表に不自然な修正があるなら、確認するのは当然です」
「偶然でしょう」
「偶然で終わらせるには、数が多いです」
「あなた方はいつもそうだ。小さなミスを大事件にしたがる」
「小さなミスで人が死ぬこともあります」
神崎さんの目が冷えた。
先生が横で小さく息を吸ったのがわかった。
止めようとしたのかもしれない。
でも、私は止まれなかった。
眠っているみたいだった、と泣いた家族の声。
病院のベッドで「眠らせるな」とうめいた藤堂さんの声。
誰かが意図しているなら、次もある。
「神崎さん。藤堂さんの自宅に、一昨日の夕方、白峰メディカルケアの関係者が訪問しています。訪問予定は昨日の朝のはずでした。誰が行ったんですか」
「知りません」
「確認してください」
「今すぐには無理です」
「なぜですか。電子記録で管理しているんですよね」
「個別の訪問は、看護部の管理です」
「橘看護主任ですか」
神崎さんの顔が、はっきり強張った。
「刑事さん」
声が低くなる。
「憶測でスタッフを傷つけないでいただきたい」
「傷つけたくないから、早く事実を確認したいんです」
「お引き取りください」
神崎さんが踵を返す。
私は反射的に前へ出た。
「待ってください。夏目さんの削除履歴だけでも――」
腕を伸ばしたわけではない。
ただ、進路をふさいだ。
その瞬間、神崎さんが私の肩を強く払った。
「どいてください」
体勢が崩れた。
待合室の椅子の脚に踵が引っかかる。
視界が傾く。
まずい。
そう思った瞬間、強い手が私の腕を掴んだ。
ぐい、と引き戻される。
背中が、誰かの胸元にぶつかる寸前で止まった。
沢渡先生だった。
「今井刑事」
低い声。
冷たい声。
でも、掴まれた腕は熱かった。
思っていたより大きな手だった。
指が、私の上腕をしっかり支えている。
袖口から覗く手首。
無駄のない骨ばった指。
その手が、驚くほど温かい。
氷の法医学者。
そう呼ばれる人の手なのに。
私を転ばせないために掴んだ手は、ちゃんと生きている温度をしていた。
「す、すみません」
私は慌てて体勢を戻す。
先生はすぐに手を離した。
離された場所だけ、まだ熱が残っている。
神崎さんは一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに表情を整えた。
「失礼しました。強く当たったつもりは」
「彼女が刑事でなければ、転倒していた」
先生が言った。
声は淡々としていた。
けれど、いつもより温度が低い。
神崎さんの顔色が変わる。
「それは」
「今井刑事。今日は引こう」
先生は私に言った。
「でも」
「今日は、引く」
二度目の声に、逆らえなかった。
私は唇を噛み、頷いた。