氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
夏目莉子は、亡くなる前に「薬のこと」を警察に言うか迷っていた。
そして今井刑事が、そのメモの存在を把握した。
白峰側にその情報が漏れれば、次に危険になるのは――
スマートフォンが震えた。
俺はほとんど反射で手に取った。
画面表示。
今井刑事。
通話を押すまでの時間が、自分でも短すぎた。
「沢渡だ」
『今井です。今、大丈夫ですか』
「要点を言え」
いつもの言い方だった。
少なくとも、声はいつも通りだったはずだ。
電話の向こうで、わずかに雨音がした。外か。まだ移動中なのか。
『夏目由香さんへの聞き取りが終わりました』
「内容は」
『莉子さんが亡くなる前に、白峰の薬がおかしいって話していたそうです。それと、神崎さんに相談したら、黙っていた方がいいと言われた、と』
神崎。
やはりそこへ戻る。
「本人の発言か」
『由香さんが莉子さんから直接聞いています。ただ、録音はありません』
「伝聞だな」
『はい。でも、莉子さんのスマホに、白峰メディカルケアの薬剤管理画面を撮った写真が残っている可能性があります』
俺は椅子から少し身を起こした。
「可能性?」
『莉子さんが妹さんに、いざという時のために写真を残した、と話していたそうです。ただ、スマホにロックがかかっていて、まだ中身を確認できていません』
「スマホは誰が保管している」
『由香さんです。警察への任意提出には前向きですが、姉の私物なので少し迷っています。明日、改めて確認することになりました』
「その間に白峰側へ情報が漏れれば、証拠が消える可能性がある」
『わかっています。だから、由香さんには誰にも話さないよう伝えました』
その返事は落ち着いていた。
俺は次の問いを口にした。
「今どこにいる」
電話の向こうが一瞬、静かになった。
『え?』
「場所を聞いている」
『夏目さんの妹さんの家を出たところです。真鍋先輩もいます』
真鍋刑事がいる。
そう聞いて、胸の奥の不快な緊張が緩んだ。
「ならいい」
『……ならいい、ですか?』
「単独行動でないなら、現時点の危険は下がる」
『あ、はい。合理的ですね』
電話の向こうで、男の声が笑った。
『沢渡先生、心配性の彼氏みたいだな』
真鍋刑事だ。
電話の向こうでは、今井刑事が慌てている。
『ちょ、真鍋先輩! 先生に変なこと言わないでください!』
『変なことって、いやいや、だって開口一番、今どこにいる、だぞ?』
『それは事件のためです!』
なぜ彼女が弁解している。
こちらが否定すべき事案だ。
「今井刑事」
『は、はい』
「真鍋刑事に伝えろ」
『何をですか』
「通信妨害は、捜査妨害に近い」
電話の向こうで、真鍋刑事が吹き出した。
『沢渡先生、冗談じゃなくて本気で言ってるだろ』
『すみません、先生。先輩はあとで黙らせます』
「物理的手段は不要だ」
『そこまでしません』
「それならいい」
また真鍋刑事の笑い声がした。
今井刑事の息遣いが、少しだけ近くなる。おそらくスマートフォンを持ち替えたのだろう。
『先生、これから署に戻ります。夏目さんの証言とメモの写真、それからスマホの任意提出に関する手続きをまとめます』
「俺も行く」
『え?』
「警察署へ行く。情報共有のためだ」
『わざわざ来てくれるんですか』
その声が、ほんの少し明るくなった。
俺は机の上の資料を揃えながら答えた。
「君の報告は感情が混じる。現物を見た方が早い」
『……先生って、来てくれるって言った直後にどうしてそういうこと言うんですか』
「事実だからだ」
『今のは、ちょっと嬉しかったのに』
指が止まった。
嬉しかった。
何が。
俺が行くことが?
捜査に必要な情報共有である以上、喜怒哀楽を挟む余地はない。だが、電話越しの彼女の声に混じった小さなむくれ方を、俺は正確に拾ってしまった。
「三十分後に着く」
『わかりました。資料室を押さえておきます』
「それと」
『はい』
「移動中に寄り道するな」
『しません』
返事が早い。
俺は言った。
「本当にわかっている人間は、その速度で返事をしない」
『電話越しでも疑われるんですか、私』
「日頃の行動の結果だ」
『……ちゃんと真鍋先輩と戻ります』
「ならいい」
通話が切れた。
俺は画面を数秒見つめていた。
通知は消えている。
用件は終わった。
すぐに端末を置けばいい。なのに、指が動くのにわずかな遅れがあった。
俺はその遅れを、通話内容の整理に伴う一時的な思考停止と見なした。
恋愛感情ではない。
そもそも、彼女は危険人物だ。
計算外の行動をする刑事であり、俺の秘密を知っている人間であり、一度それを武器にした人間だ。警戒すべき対象である。
ただし、現在はその秘密を守る姿勢を見せている。
昨日の病院でも、処置室で俺の前に立った。あれは、俺の状態を隠すための行動だった。周囲に見せ物にしなかった。今朝も、誰にも言わないと明言した。
守る、と言った。
あの言葉を信用する根拠は十分ではない。
だが、今のところ彼女は約束を破っていない。
だから、判断を保留している。
それだけだ。
そして今井刑事が、そのメモの存在を把握した。
白峰側にその情報が漏れれば、次に危険になるのは――
スマートフォンが震えた。
俺はほとんど反射で手に取った。
画面表示。
今井刑事。
通話を押すまでの時間が、自分でも短すぎた。
「沢渡だ」
『今井です。今、大丈夫ですか』
「要点を言え」
いつもの言い方だった。
少なくとも、声はいつも通りだったはずだ。
電話の向こうで、わずかに雨音がした。外か。まだ移動中なのか。
『夏目由香さんへの聞き取りが終わりました』
「内容は」
『莉子さんが亡くなる前に、白峰の薬がおかしいって話していたそうです。それと、神崎さんに相談したら、黙っていた方がいいと言われた、と』
神崎。
やはりそこへ戻る。
「本人の発言か」
『由香さんが莉子さんから直接聞いています。ただ、録音はありません』
「伝聞だな」
『はい。でも、莉子さんのスマホに、白峰メディカルケアの薬剤管理画面を撮った写真が残っている可能性があります』
俺は椅子から少し身を起こした。
「可能性?」
『莉子さんが妹さんに、いざという時のために写真を残した、と話していたそうです。ただ、スマホにロックがかかっていて、まだ中身を確認できていません』
「スマホは誰が保管している」
『由香さんです。警察への任意提出には前向きですが、姉の私物なので少し迷っています。明日、改めて確認することになりました』
「その間に白峰側へ情報が漏れれば、証拠が消える可能性がある」
『わかっています。だから、由香さんには誰にも話さないよう伝えました』
その返事は落ち着いていた。
俺は次の問いを口にした。
「今どこにいる」
電話の向こうが一瞬、静かになった。
『え?』
「場所を聞いている」
『夏目さんの妹さんの家を出たところです。真鍋先輩もいます』
真鍋刑事がいる。
そう聞いて、胸の奥の不快な緊張が緩んだ。
「ならいい」
『……ならいい、ですか?』
「単独行動でないなら、現時点の危険は下がる」
『あ、はい。合理的ですね』
電話の向こうで、男の声が笑った。
『沢渡先生、心配性の彼氏みたいだな』
真鍋刑事だ。
電話の向こうでは、今井刑事が慌てている。
『ちょ、真鍋先輩! 先生に変なこと言わないでください!』
『変なことって、いやいや、だって開口一番、今どこにいる、だぞ?』
『それは事件のためです!』
なぜ彼女が弁解している。
こちらが否定すべき事案だ。
「今井刑事」
『は、はい』
「真鍋刑事に伝えろ」
『何をですか』
「通信妨害は、捜査妨害に近い」
電話の向こうで、真鍋刑事が吹き出した。
『沢渡先生、冗談じゃなくて本気で言ってるだろ』
『すみません、先生。先輩はあとで黙らせます』
「物理的手段は不要だ」
『そこまでしません』
「それならいい」
また真鍋刑事の笑い声がした。
今井刑事の息遣いが、少しだけ近くなる。おそらくスマートフォンを持ち替えたのだろう。
『先生、これから署に戻ります。夏目さんの証言とメモの写真、それからスマホの任意提出に関する手続きをまとめます』
「俺も行く」
『え?』
「警察署へ行く。情報共有のためだ」
『わざわざ来てくれるんですか』
その声が、ほんの少し明るくなった。
俺は机の上の資料を揃えながら答えた。
「君の報告は感情が混じる。現物を見た方が早い」
『……先生って、来てくれるって言った直後にどうしてそういうこと言うんですか』
「事実だからだ」
『今のは、ちょっと嬉しかったのに』
指が止まった。
嬉しかった。
何が。
俺が行くことが?
捜査に必要な情報共有である以上、喜怒哀楽を挟む余地はない。だが、電話越しの彼女の声に混じった小さなむくれ方を、俺は正確に拾ってしまった。
「三十分後に着く」
『わかりました。資料室を押さえておきます』
「それと」
『はい』
「移動中に寄り道するな」
『しません』
返事が早い。
俺は言った。
「本当にわかっている人間は、その速度で返事をしない」
『電話越しでも疑われるんですか、私』
「日頃の行動の結果だ」
『……ちゃんと真鍋先輩と戻ります』
「ならいい」
通話が切れた。
俺は画面を数秒見つめていた。
通知は消えている。
用件は終わった。
すぐに端末を置けばいい。なのに、指が動くのにわずかな遅れがあった。
俺はその遅れを、通話内容の整理に伴う一時的な思考停止と見なした。
恋愛感情ではない。
そもそも、彼女は危険人物だ。
計算外の行動をする刑事であり、俺の秘密を知っている人間であり、一度それを武器にした人間だ。警戒すべき対象である。
ただし、現在はその秘密を守る姿勢を見せている。
昨日の病院でも、処置室で俺の前に立った。あれは、俺の状態を隠すための行動だった。周囲に見せ物にしなかった。今朝も、誰にも言わないと明言した。
守る、と言った。
あの言葉を信用する根拠は十分ではない。
だが、今のところ彼女は約束を破っていない。
だから、判断を保留している。
それだけだ。