氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
私は少しだけ先生を見た。
沢渡先生は出入口に視線を向けている。
警戒しているのだとわかった。
橘さんが来る方向。
神崎さんや白峰メディカルケアの関係者が現れるかもしれない場所。
さっきの即答は痛かった。
でも、この人は今、ちゃんと私の隣で周囲を見ている。
その事実が、痛みを少しだけ薄めた。
「橘さんです」
私が呟くと、沢渡先生の視線も動いた。
橘美里さんは、ベージュのカーディガンに地味なスカート姿で現れた。
周囲を何度も確認し、私たちを見つけると、少しだけ安心したように息を吐いた。
「すみません、急に」
「こちらこそ、来てくださってありがとうございます」
私は立ち上がった。
沢渡先生も軽く会釈する。
真鍋先輩は離れた席から一瞬だけ視線を寄こし、すぐ新聞に戻った。
橘さんは椅子に座るなり、手を膝の上で固く握った。
「神崎さんには、本当に言わないでください」
「言いません。今日のことは任意でお話を伺う形です。必要な手続きが出た場合は、改めてご相談します」
私がそう答えると、橘さんは小さく頷いた。
沢渡先生が静かに口を開く。
「話せる範囲で構いません。薬剤管理システムについて、あなたが気づいたことを教えてください」
橘さんの肩が震えた。
「先生は……やっぱり、わかっていたんですね」
「わかっていることは少ない。だから確認している」
「神崎さんは、医療資格がありません」
橘さんは、押し出すように言った。
「でも、薬剤配送と電子記録には、ものすごく関わっていました。訪問先ごとの薬の補充予定、提携薬局との連絡、配送の時間調整。事務長だから、地域連携の窓口としてはおかしくないんです。でも……」
「でも?」
私が促すと、橘さんは唇を噛んだ。
「現場の記録まで、後から整えていたんです」
沢渡先生の目が細くなる。
「誰のアカウントで」
「管理者アカウントです。院長名義の時もありました。私の看護主任アカウントになっていたこともあります」
「あなた自身が入力していない記録が、あなた名義で残っていた?」
「はい」
橘さんの声は震えていた。
「最初は入力漏れを直してくれたんだと思いました。小さなクリニックですし、忙しい時は事務が補助することもあります。でも、死亡された患者さんの記録を見直したとき、訪問後の服薬確認や残薬数が、私の記憶と違っていて」
私はペンを握る手に力を込めた。
「小沢千代さんの記録ですか」
「はい。それから、夏目莉子さんの記録も」
夏目莉子。
亡くなる前に薬のことを警察に言うか迷っていた人。
橘さんは視線を落としたまま続けた。
「夏目さんは、気づいていたと思います。薬剤管理画面をスマホで撮影していました。私、見ちゃったんです。訪問の時、彼女がスタッフの目を盗むように画面の写真を撮っているのを」
「何の画面でしたか」
「睡眠導入剤の記録です。実際には処方していないはずの薬が、一時的に記録に出ていたんです。夏目さんは、それを見て怖くなったんだと思います」
私は思わず前のめりになった。
「そのことを、どうして今まで――」
机の上で、こつ、と小さな音がした。
沢渡先生のペンが、机を軽く叩いた音だった。
続いて、低い声。
「今井」
たったそれだけ。
私は息を止めた。
今の私は、責める声になっていた。
なぜ言わなかったんですか。
もっと早く言っていれば。
誰かを救えたかもしれないのに。
そんな言葉が喉元に出かけていた。
橘さんは怯えている。
この人は犯人ではないかもしれない。
少なくとも、今この場で責められることを恐れている。
私はペンを持つ手を緩めた。
「すみません」
橘さんへ向き直る。
「責めたいわけではありません。怖かったんですよね」
橘さんの目が潤んだ。
「怖かったです」
その一言は、想像していたよりずっと重かった。
「患者さんのための記録なのに、誰かが後から変えているかもしれない。しかも、それを指摘したら、神崎さんに言われました」
「何と」
沢渡先生が尋ねる。
橘さんは周囲を見回し、声を落とした。
「余計なことを言うな、と。今、白峰は大事な時期だ。外に漏れたら、患者もスタッフも困ることになる。あなたの記録の不備も問題にされる、と」
「釘を刺されたんですね」
私が言うと、橘さんは頷いた。
「私にも、記録漏れや判断ミスがまったくなかったわけではありません。訪問現場は忙しくて、書くべきことを書きそびれたこともあります。だから……神崎さんにそう言われると、何も言えなくなって」
その言葉に、胸が痛んだ。
責任感があるから黙った。
患者を守りたいから、職場を壊すのが怖かった。
でも、その沈黙の間にも、誰かが亡くなっている。
正しい人だけが正しく動けるわけじゃない。
怖い人は、怖いまま間違うこともある。
私だって、沢渡先生の秘密を利用した。
正義のためだと言いながら、誰かの弱さを踏んだ。
人を責める資格があるのか。
そう思うと、握ったペンの先が少し震えた。
沢渡先生が、机の上の資料の端に指を置いた。
「藤堂誠司さんについて聞きます」
先生の声は静かだった。
「予定外の訪問があったと聞いています。前日の夕方、封筒が渡されていた可能性がある」
橘さんの顔色が変わった。
「藤堂さんにも……」
「にも?」
私が聞くと、橘さんは慌てて口を押さえた。
沢渡先生は追い詰めるような声を出さなかった。
「夏目莉子さんにも、何か渡されていた?」
橘さんはしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
「夏目さんが亡くなる少し前、神崎さんが外回りの予定にない時間に出ていました。戻ってきたとき、空の封筒を処分しているのを見ました。夏目さんの訪問記録が、その後で更新されていて……でも、証拠はありません」
「藤堂さんの時も、神崎さんが?」
「私は見ていません。でも、前日の配送記録に不自然な空白がありました。訪問予定は翌朝だったのに、薬剤配送の確認欄だけ前日の夕方に更新されていて。神崎さんの管理者アカウントでした」
「神崎さんは医療資格がないのに、配送と電子記録をまとめて動かせた」
「はい」
橘さんは泣きそうな顔で頷いた。
「でも、神崎さんだけが悪いと証明できるものは、私にはありません。院長名義の更新もありました。私名義の更新もあります。神崎さんは、みんな忙しいから代わりに整えているだけだと言っていました。院長先生も、細かいシステム管理は事務長に任せていて……」
白峰院長。
管理責任はある。
けれど、真犯人とは限らない。
神崎事務長。
薬剤配送と電子記録を握る人物。
夏目莉子さんに黙るよう言った疑い。
橘さんに余計なことを言うなと釘を刺した人物。
藤堂さんへの予定外訪問にも関わった可能性。
線は、神崎さんへ集まり始めている。
でも、まだ足りない。
沢渡先生は出入口に視線を向けている。
警戒しているのだとわかった。
橘さんが来る方向。
神崎さんや白峰メディカルケアの関係者が現れるかもしれない場所。
さっきの即答は痛かった。
でも、この人は今、ちゃんと私の隣で周囲を見ている。
その事実が、痛みを少しだけ薄めた。
「橘さんです」
私が呟くと、沢渡先生の視線も動いた。
橘美里さんは、ベージュのカーディガンに地味なスカート姿で現れた。
周囲を何度も確認し、私たちを見つけると、少しだけ安心したように息を吐いた。
「すみません、急に」
「こちらこそ、来てくださってありがとうございます」
私は立ち上がった。
沢渡先生も軽く会釈する。
真鍋先輩は離れた席から一瞬だけ視線を寄こし、すぐ新聞に戻った。
橘さんは椅子に座るなり、手を膝の上で固く握った。
「神崎さんには、本当に言わないでください」
「言いません。今日のことは任意でお話を伺う形です。必要な手続きが出た場合は、改めてご相談します」
私がそう答えると、橘さんは小さく頷いた。
沢渡先生が静かに口を開く。
「話せる範囲で構いません。薬剤管理システムについて、あなたが気づいたことを教えてください」
橘さんの肩が震えた。
「先生は……やっぱり、わかっていたんですね」
「わかっていることは少ない。だから確認している」
「神崎さんは、医療資格がありません」
橘さんは、押し出すように言った。
「でも、薬剤配送と電子記録には、ものすごく関わっていました。訪問先ごとの薬の補充予定、提携薬局との連絡、配送の時間調整。事務長だから、地域連携の窓口としてはおかしくないんです。でも……」
「でも?」
私が促すと、橘さんは唇を噛んだ。
「現場の記録まで、後から整えていたんです」
沢渡先生の目が細くなる。
「誰のアカウントで」
「管理者アカウントです。院長名義の時もありました。私の看護主任アカウントになっていたこともあります」
「あなた自身が入力していない記録が、あなた名義で残っていた?」
「はい」
橘さんの声は震えていた。
「最初は入力漏れを直してくれたんだと思いました。小さなクリニックですし、忙しい時は事務が補助することもあります。でも、死亡された患者さんの記録を見直したとき、訪問後の服薬確認や残薬数が、私の記憶と違っていて」
私はペンを握る手に力を込めた。
「小沢千代さんの記録ですか」
「はい。それから、夏目莉子さんの記録も」
夏目莉子。
亡くなる前に薬のことを警察に言うか迷っていた人。
橘さんは視線を落としたまま続けた。
「夏目さんは、気づいていたと思います。薬剤管理画面をスマホで撮影していました。私、見ちゃったんです。訪問の時、彼女がスタッフの目を盗むように画面の写真を撮っているのを」
「何の画面でしたか」
「睡眠導入剤の記録です。実際には処方していないはずの薬が、一時的に記録に出ていたんです。夏目さんは、それを見て怖くなったんだと思います」
私は思わず前のめりになった。
「そのことを、どうして今まで――」
机の上で、こつ、と小さな音がした。
沢渡先生のペンが、机を軽く叩いた音だった。
続いて、低い声。
「今井」
たったそれだけ。
私は息を止めた。
今の私は、責める声になっていた。
なぜ言わなかったんですか。
もっと早く言っていれば。
誰かを救えたかもしれないのに。
そんな言葉が喉元に出かけていた。
橘さんは怯えている。
この人は犯人ではないかもしれない。
少なくとも、今この場で責められることを恐れている。
私はペンを持つ手を緩めた。
「すみません」
橘さんへ向き直る。
「責めたいわけではありません。怖かったんですよね」
橘さんの目が潤んだ。
「怖かったです」
その一言は、想像していたよりずっと重かった。
「患者さんのための記録なのに、誰かが後から変えているかもしれない。しかも、それを指摘したら、神崎さんに言われました」
「何と」
沢渡先生が尋ねる。
橘さんは周囲を見回し、声を落とした。
「余計なことを言うな、と。今、白峰は大事な時期だ。外に漏れたら、患者もスタッフも困ることになる。あなたの記録の不備も問題にされる、と」
「釘を刺されたんですね」
私が言うと、橘さんは頷いた。
「私にも、記録漏れや判断ミスがまったくなかったわけではありません。訪問現場は忙しくて、書くべきことを書きそびれたこともあります。だから……神崎さんにそう言われると、何も言えなくなって」
その言葉に、胸が痛んだ。
責任感があるから黙った。
患者を守りたいから、職場を壊すのが怖かった。
でも、その沈黙の間にも、誰かが亡くなっている。
正しい人だけが正しく動けるわけじゃない。
怖い人は、怖いまま間違うこともある。
私だって、沢渡先生の秘密を利用した。
正義のためだと言いながら、誰かの弱さを踏んだ。
人を責める資格があるのか。
そう思うと、握ったペンの先が少し震えた。
沢渡先生が、机の上の資料の端に指を置いた。
「藤堂誠司さんについて聞きます」
先生の声は静かだった。
「予定外の訪問があったと聞いています。前日の夕方、封筒が渡されていた可能性がある」
橘さんの顔色が変わった。
「藤堂さんにも……」
「にも?」
私が聞くと、橘さんは慌てて口を押さえた。
沢渡先生は追い詰めるような声を出さなかった。
「夏目莉子さんにも、何か渡されていた?」
橘さんはしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
「夏目さんが亡くなる少し前、神崎さんが外回りの予定にない時間に出ていました。戻ってきたとき、空の封筒を処分しているのを見ました。夏目さんの訪問記録が、その後で更新されていて……でも、証拠はありません」
「藤堂さんの時も、神崎さんが?」
「私は見ていません。でも、前日の配送記録に不自然な空白がありました。訪問予定は翌朝だったのに、薬剤配送の確認欄だけ前日の夕方に更新されていて。神崎さんの管理者アカウントでした」
「神崎さんは医療資格がないのに、配送と電子記録をまとめて動かせた」
「はい」
橘さんは泣きそうな顔で頷いた。
「でも、神崎さんだけが悪いと証明できるものは、私にはありません。院長名義の更新もありました。私名義の更新もあります。神崎さんは、みんな忙しいから代わりに整えているだけだと言っていました。院長先生も、細かいシステム管理は事務長に任せていて……」
白峰院長。
管理責任はある。
けれど、真犯人とは限らない。
神崎事務長。
薬剤配送と電子記録を握る人物。
夏目莉子さんに黙るよう言った疑い。
橘さんに余計なことを言うなと釘を刺した人物。
藤堂さんへの予定外訪問にも関わった可能性。
線は、神崎さんへ集まり始めている。
でも、まだ足りない。