氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
私は真鍋先輩へ位置情報を送り、倉庫の扉へ近づいた。
扉は少しだけ開いていた。
中から、薄い光が漏れている。
蛍光灯が一本だけついているようだった。
「橘さん」
私は声を抑えて呼んだ。
中で、何かが小さく動く音がした。
「今井さん……?」
震えた声。
橘美里さんだった。
私と沢渡先生は目を合わせる。
先生が小さく頷いたので、私は扉を押し開けた。
倉庫の中は、外から見たより広かった。
入口近くには古い配送バッグがいくつも積まれている。青い保冷バッグ、白峰メディカルケアのロゴが入った訪問バッグ、使われなくなった医療機材のケース。壁際には金属棚が並び、薬剤管理の古いファイルや、訪問看護用の備品が雑然と置かれていた。
奥には小さな事務スペースのような一角があり、長机の上にノートパソコン型の端末が一台置かれている。その隣には封筒が数枚、茶色い紙袋、そして看護主任用と見られる端末ケース。
橘さんは、その机のそばに立っていた。
ベージュのコートを羽織り、肩から訪問バッグを下げている。
顔色は悪く、両手を胸の前で握りしめていた。
「来てくださって、ありがとうございます」
彼女の声は震えていた。
昨日までと同じ。
怯えた証言者。
神崎さんに脅されている看護主任。
責任感があるからこそ、ずっと言えなかった人。
そう見える。
でも、私はもう、一歩手前で立ち止まることを覚えた。
「橘さん、怪我はありませんか」
「はい。大丈夫です。でも、早く見つけないと……神崎さんが来てしまいます」
「神崎さんはここへ来るんですか」
「たぶん。さっき、電話で話していました。旧倉庫のものを整理するって」
「誰と話していたんですか」
「わかりません。事務所の奥で……でも、神崎さんの声でした」
私はメモを取る。
すると沢渡先生が、一歩前へ出た。
「橘さん。証拠とは、何ですか」
「薬剤配送の記録。それから、神崎さんが使っていた端末も」
「神崎が使っていた端末が、なぜ旧倉庫に?」
先生の声は静かだった。
橘さんは一瞬、言葉に詰まった。
「それは……古い端末を隠していたんだと思います。システム会社のログが残っているかもしれないから」
「あなたは、それをどうやって知ったんですか」
「神崎さんが、言っていたんです。古い端末を処分しないとまずい、と」
「誰に?」
「……院長先生に」
「それを聞いた場所は?」
「廊下です」
「いつ?」
「今日の夕方です」
先生は、少しだけ間を置いた。
私はその横顔を見る。
表情は変わらない。
でも、先生が何かを拾ったのがわかった。
「橘さん」
先生は言った。
「神崎が封筒を持っていた、とあなたは言いました」
「はい」
「夏目莉子さんの件でも、藤堂誠司さんの件でも、神崎の名前を出した」
「だって、神崎さんが……」
「橘さん。あなたの証言は、神崎を疑わせるには都合が良すぎる」
倉庫の空気が、すっと冷えた。
橘さんの顔がこわばる。
私は息を止めた。
沢渡先生は続ける。
「神崎は薬剤配送に関われる。電子記録にも触れる。管理者権限にも近い。怪しく見える要素はある」
「見えるんじゃなくて、実際に――」
「だが、神崎を示す証拠がない」
先生の声は、氷のように静かだった。
「あるのは、あなたの言葉だけだ」
橘さんの唇が、わずかに震える。
「そんな……私は、怖くて……」
「怖かったことと、証言が正しいことは同じではありません」
私の胸が痛んだ。
昨日、私も似たようなことを言われた。
怯えていることと、正しい証言をしていることは違う。
守りたい相手の言葉を、全部そのまま信じてはいけない。
それは冷たい。
けれど、必要な冷たさだった。
沢渡先生は、机の上の封筒を指差した。
「藤堂宅で封筒を渡したのは、女性だった」
藤堂さんの奥さんの証言――『院長先生ではありません。女性でした。たぶん、看護師さんか事務の方か。顔は見ていません』
神崎さんではない。
少なくとも、藤堂宅を訪れたのは男性の神崎さんではない。
それなのに橘さんは、ずっと神崎さんへ話を向けていた。
神崎さんが配送を気にしていた。
神崎さんが電子記録を整えていた。
神崎さんが封筒を持っていた。
神崎さんには知られたくない。
その瞬間、私の中で何かが閃いた。
それらは全部、神崎さんを怪しく見せる言葉だったのではないかと。
「橘さん……」
私の声が、思ったより掠れた。
橘さんは、私を見た。
その目が、さっきまでとは違っていた。
怯えの奥に、別の色がある。
焦り。
苛立ち。
見抜かれたくないものを見られた人の目。
沢渡先生は、端末ケースを見た。
「それから、あなたの訪問バッグ」
「え?」
「夏目莉子さんのスマホ写真の端に、同じバッグが写っていました」
私の背筋に冷たいものが走る。
夏目莉子さんのスマホ写真。
薬剤管理画面の写真。
その端に写り込んでいた、小さな紺色のケース。
私は昨日、資料で見ていた。
画面の端に、ぼやけた布地のようなものが写っていた。
沢渡先生が、そこまで見ていたなんて。
「白峰メディカルケアのスタッフなら、同じ備品を持つこともあるでしょう」
橘さんが言う。
声はまだ震えている。
でも、震え方が変わっていた。
沢渡先生は首を振らない。
「同じ備品ではありません。角に白い補修テープが貼られている。あなたのバッグにも同じ位置にあります」
私は橘さんの訪問バッグを見た。
たしかに、底の角に白いテープが貼られている。
何度も使って擦り切れた部分を、応急処置で補修したような跡。
私の中で、音を立てて何かが崩れた。
橘さんを守りたいと思っていた。
怯えた内部告発者だと思っていた。
弱い立場で、神崎さんに脅されている人だと思っていた。
でも、もしかして。
利用されていたのは、私の方だったのか。
扉は少しだけ開いていた。
中から、薄い光が漏れている。
蛍光灯が一本だけついているようだった。
「橘さん」
私は声を抑えて呼んだ。
中で、何かが小さく動く音がした。
「今井さん……?」
震えた声。
橘美里さんだった。
私と沢渡先生は目を合わせる。
先生が小さく頷いたので、私は扉を押し開けた。
倉庫の中は、外から見たより広かった。
入口近くには古い配送バッグがいくつも積まれている。青い保冷バッグ、白峰メディカルケアのロゴが入った訪問バッグ、使われなくなった医療機材のケース。壁際には金属棚が並び、薬剤管理の古いファイルや、訪問看護用の備品が雑然と置かれていた。
奥には小さな事務スペースのような一角があり、長机の上にノートパソコン型の端末が一台置かれている。その隣には封筒が数枚、茶色い紙袋、そして看護主任用と見られる端末ケース。
橘さんは、その机のそばに立っていた。
ベージュのコートを羽織り、肩から訪問バッグを下げている。
顔色は悪く、両手を胸の前で握りしめていた。
「来てくださって、ありがとうございます」
彼女の声は震えていた。
昨日までと同じ。
怯えた証言者。
神崎さんに脅されている看護主任。
責任感があるからこそ、ずっと言えなかった人。
そう見える。
でも、私はもう、一歩手前で立ち止まることを覚えた。
「橘さん、怪我はありませんか」
「はい。大丈夫です。でも、早く見つけないと……神崎さんが来てしまいます」
「神崎さんはここへ来るんですか」
「たぶん。さっき、電話で話していました。旧倉庫のものを整理するって」
「誰と話していたんですか」
「わかりません。事務所の奥で……でも、神崎さんの声でした」
私はメモを取る。
すると沢渡先生が、一歩前へ出た。
「橘さん。証拠とは、何ですか」
「薬剤配送の記録。それから、神崎さんが使っていた端末も」
「神崎が使っていた端末が、なぜ旧倉庫に?」
先生の声は静かだった。
橘さんは一瞬、言葉に詰まった。
「それは……古い端末を隠していたんだと思います。システム会社のログが残っているかもしれないから」
「あなたは、それをどうやって知ったんですか」
「神崎さんが、言っていたんです。古い端末を処分しないとまずい、と」
「誰に?」
「……院長先生に」
「それを聞いた場所は?」
「廊下です」
「いつ?」
「今日の夕方です」
先生は、少しだけ間を置いた。
私はその横顔を見る。
表情は変わらない。
でも、先生が何かを拾ったのがわかった。
「橘さん」
先生は言った。
「神崎が封筒を持っていた、とあなたは言いました」
「はい」
「夏目莉子さんの件でも、藤堂誠司さんの件でも、神崎の名前を出した」
「だって、神崎さんが……」
「橘さん。あなたの証言は、神崎を疑わせるには都合が良すぎる」
倉庫の空気が、すっと冷えた。
橘さんの顔がこわばる。
私は息を止めた。
沢渡先生は続ける。
「神崎は薬剤配送に関われる。電子記録にも触れる。管理者権限にも近い。怪しく見える要素はある」
「見えるんじゃなくて、実際に――」
「だが、神崎を示す証拠がない」
先生の声は、氷のように静かだった。
「あるのは、あなたの言葉だけだ」
橘さんの唇が、わずかに震える。
「そんな……私は、怖くて……」
「怖かったことと、証言が正しいことは同じではありません」
私の胸が痛んだ。
昨日、私も似たようなことを言われた。
怯えていることと、正しい証言をしていることは違う。
守りたい相手の言葉を、全部そのまま信じてはいけない。
それは冷たい。
けれど、必要な冷たさだった。
沢渡先生は、机の上の封筒を指差した。
「藤堂宅で封筒を渡したのは、女性だった」
藤堂さんの奥さんの証言――『院長先生ではありません。女性でした。たぶん、看護師さんか事務の方か。顔は見ていません』
神崎さんではない。
少なくとも、藤堂宅を訪れたのは男性の神崎さんではない。
それなのに橘さんは、ずっと神崎さんへ話を向けていた。
神崎さんが配送を気にしていた。
神崎さんが電子記録を整えていた。
神崎さんが封筒を持っていた。
神崎さんには知られたくない。
その瞬間、私の中で何かが閃いた。
それらは全部、神崎さんを怪しく見せる言葉だったのではないかと。
「橘さん……」
私の声が、思ったより掠れた。
橘さんは、私を見た。
その目が、さっきまでとは違っていた。
怯えの奥に、別の色がある。
焦り。
苛立ち。
見抜かれたくないものを見られた人の目。
沢渡先生は、端末ケースを見た。
「それから、あなたの訪問バッグ」
「え?」
「夏目莉子さんのスマホ写真の端に、同じバッグが写っていました」
私の背筋に冷たいものが走る。
夏目莉子さんのスマホ写真。
薬剤管理画面の写真。
その端に写り込んでいた、小さな紺色のケース。
私は昨日、資料で見ていた。
画面の端に、ぼやけた布地のようなものが写っていた。
沢渡先生が、そこまで見ていたなんて。
「白峰メディカルケアのスタッフなら、同じ備品を持つこともあるでしょう」
橘さんが言う。
声はまだ震えている。
でも、震え方が変わっていた。
沢渡先生は首を振らない。
「同じ備品ではありません。角に白い補修テープが貼られている。あなたのバッグにも同じ位置にあります」
私は橘さんの訪問バッグを見た。
たしかに、底の角に白いテープが貼られている。
何度も使って擦り切れた部分を、応急処置で補修したような跡。
私の中で、音を立てて何かが崩れた。
橘さんを守りたいと思っていた。
怯えた内部告発者だと思っていた。
弱い立場で、神崎さんに脅されている人だと思っていた。
でも、もしかして。
利用されていたのは、私の方だったのか。