氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
橘さんの手が、机の上の端末へ伸びた。

「触らないでください」

私が言うより早く、沢渡先生の声が飛んだ。

橘さんは端末を掴む。
同時に、茶封筒も手に取った。

「これを渡すわけにはいきません」

「橘さん、やめてください」

私は一歩前に出た。

沢渡先生が短く言う。

「今井、近づきすぎるな」

わかっている。
でも、端末と封筒が奪われる。

そこには、夏目莉子さんの写真と照合できる何かがあるかもしれない。
藤堂さんの封筒と結びつく痕跡があるかもしれない。
看護主任用端末からのアクセスログが残っているかもしれない。

橘さんが踵を返し、倉庫奥の非常口へ向かう。

「止まってください!」

私は走りかけて、すぐに自分を止めた。

一人で突っ込まない。
先生から離れない。
そう決めたばかりだ。

でも、橘さんは非常口に手をかける。

その先へ逃げられたら、証拠を持ち去られる。

私は叫んだ。

「真鍋先輩、奥側!」

連絡用に開いていた通話から、真鍋先輩の声が返る。

『了解、奥へ回る!』

橘さんが舌打ちした。

その瞬間、彼女は方向を変えた。
非常口ではなく、入口側へ。

私たちの横をすり抜けようとする。

沢渡先生が私の腕を軽く引いた。

「今井、下がれ」

でも、橘さんの手から茶封筒が滑り落ちた。
床に落ちた封筒が、水を吸ったコンクリートの上に広がる。

その中から、小さなメモリ媒体のようなものが転がった。

私は反射的に手を伸ばした。

橘さんも同時に手を伸ばす。

「渡して!」

橘さんの声が鋭く響いた。

揉み合いになったのは、一瞬だった。

私がメモリ媒体を押さえようとした手を、橘さんが振り払う。
その勢いで、私の体が横へ流れた。

足元に、古い配送バッグ。
後ろに、金属棚。

まずい。

そう思ったときには、右腕が棚の角に触れていた。

鋭い痛みが走る。

「っ……!」

息が詰まった。

棚の金属部分に、腕の外側を浅く裂かれたのだと、すぐにわかった。

深くはない。
命に関わるような傷ではない。
刑事なら、これくらいで動けなくなるようなものじゃない。

けれど、じわりと熱い感触が腕を伝った。

暗い倉庫の蛍光灯の下で、赤い線が浮かんでいく。

血。

自分の血。

私は咄嗟に左手で腕を押さえた。

「今井!」

沢渡先生の声がした。

これまで聞いたことのない声だった。

冷たくない。
淡々としていない。
呼吸ごと裂けるような、切羽詰まった声。

先生が駆け寄ろうとして、そこで止まった。

私の腕から流れる赤を見た瞬間、先生の顔色が変わった。

白い。

いや、白を通り越して、血の気が引いていく。

先生の視線が、私の腕に固定される。
呼吸が浅くなる。
肩がかすかに震える。
手が、途中で宙に止まったまま動かない。

過去に引き戻されている。

私にはわかった。

藤堂さんの処置室で見た顔。
初めて会った日、私の指先の一滴を見た時の顔。

沢渡先生の視線が逃げそうになる。
顔を背けそうになる。
それでも、完全には逸らさない。

先生は、恐怖の淵で踏みとどまっていた。
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