氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
処置が終わり、私はベッド脇の椅子に座った。
真鍋先輩は外で班長と連絡を取り、橘さんの確保後の状況を整理しているらしい。

処置室の中には、私と沢渡先生だけがいた。

白いカーテン。
消毒薬の匂い。
遠くのナースコール。
夜の病院特有の、眠りきれない静けさ。

先生は壁際に立っていた。

いつものように距離を取っているのに、今日はその距離が少し苦しそうに見える。

「先生」

私が呼ぶと、先生の視線がこちらへ向いた。

「なんだ」

「怖かったですか」

聞いた瞬間、先生の目が少しだけ揺れた。

ごまかされるかもしれないと思った。
合理的な範囲だとか、問題ないとか、いつもの言葉で処理されるかもしれないと。

でも、先生は否定しなかった。

「怖かった」

短い答えだった。

胸が、きゅっと縮む。

先生は、自分の右手を見下ろした。

「君が血を流しているのを見て、逃げたかった」

声は低い。
でも、嘘がなかった。

「だが、逃げたら君がいなくなると思った」

先生の指が、白くなるほど握られる。

「それだけは、無理だった」

君がいなくなる。
それだけは無理。

相棒に向ける言葉としては、深すぎる。
ただの捜査協力者に向ける言葉としては、近すぎる。

先生自身も、その重さに気づいたのか、すぐに視線を逸らした。

「今のは、医学的な意味で――」

「医学的な意味じゃありません」

私は静かに言った。

先生が言葉を止める。

私は包帯の巻かれた腕を見た。

「先生の手、震えてました」

「……」

「でも、その手は私から離れなかった」

言葉にすると、喉の奥が熱くなる。

「冷たいはずの声が、必死でした」

「今井」

「私は、安心しました」

先生の目が、こちらへ戻る。

私はまっすぐ見た。

「血を見て怖いのに、先生がそばにいてくれたから。私の名前を呼んでくれたから。痛みに耐えられました」

沢渡先生は、何も言わなかった。

ただ、表情を失くしたまま、じっと私を見ていた。

違う。
表情を失くしたのではない。
感情がありすぎて、どれを出せばいいかわからない顔だった。

「私は」

言いかけて、止まる。

好きです。

その言葉が、喉元まで上がってきた。

でも、まだ言えなかった。

だから私は、違う言葉を選んだ。

「先生がいてくれて、よかったです」

先生は、長く沈黙した。

そして、低く言った。

「俺は、君を守れたわけではない」

「でも、助けてくれました」

「君が怪我をした」

「それでも、先生が動いてくれなかったら、私はもっと怖かったと思います」

先生は目を伏せた。

「俺は、血を克服したわけではない」

「知っています」

「次も同じように動ける保証はない」

「それも、知っています」

私は静かに答えた。

「それでも、今日の先生は私のために動いてくれました」

先生の喉が、わずかに動く。

「……今井だからだ」

私は息を止めた。

先生は、言ってから気づいたように眉を寄せた。
でも、取り消さなかった。

今井だから。

それは、私にとって十分すぎる言葉だった。

私は視線を落とす。

泣きそうになったからだ。

沢渡先生が困るのはわかっている。
だから、泣きたくなかった。

けれど、胸の奥で何かが溢れそうだった。
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