世間ではぐうたら令嬢ですが、実は拳姫と戦場で呼ばれております。
第03話 婚約破棄の宣告
魔獣の襲撃があった数日後。
アークフェン王宮の一室――白大理石の床が光を反射する、美しくもどこか冷ややかな応接室には、重たい沈黙が満ちていた。
レイリアはいつものように王族専用のその部屋に通され、王家の徽章が刻まれた長椅子に静かに腰を下ろしていた。
高窓から差し込む陽光が、豪奢な調度品に淡い陰影を落としている。
けれど彼女の視線はどこか虚空を漂い、あまりこの場に意識が向いていないようにも見えた。
(ふぁあ……早く終わらないかな)
胸の内でそんなことをぼんやりと思いながら、ティーカップに口をつける。
紅茶は香りこそ良いものの、特別好みに合うわけでもない。
早く帰って眠りたい。
それが駄目なら、少し身体を動かしたい。
そんな事を考えているうちに、扉が静かに開いた。
姿を現したのは、金色の髪に気品ある微笑みをたたえた青年――第二王子ディオン・アークフェン。
そのすぐ後ろには、栗色の巻き髪を揺らす可憐な少女、ミラ・コルネリアが控えるように立っていた。
「待たせたね、レイリア」
ディオンの声音はいつもどおり穏やかだった。
けれど、その響きにはどこか作りものめいた気配があるように感じながら。
もっとも、レイリアにとってはさして気にかけるほどのことでもなかった。
彼女はカップを置き、ゆっくりと立ち上がる。
「……いえ。別に、急いでいませんので」
その返答に、ディオンの唇が一瞬だけかすかに引きつった。
だが彼はすぐに何事もなかったように微笑みを整える。
「レイリア。本日は大事な話があるんだ」
「大事な話、ですか」
「そうだ」
そして彼は一歩前へ進み、静かに笑いながら告げた。
「レイリア・エルヴァーン。君との婚約を、ここに破棄する」
一拍の間が落ちる。
レイリアは静かに瞬きをした。
「……ああ、そうですか」
あまりにもあっさりとしたその返事に、ディオンの表情がわずかに曇る。
「理由は明白だ。君の、王族にふさわしいとは言えない数々の振る舞い……社交の場での気のない態度、礼を欠いた言動、周囲との調和を欠く振る舞い。どれを取っても未来の王妃としての資質があるとは言えない」
まるで舞台の上で台詞を読み上げるように、整然と言葉が並べられていく。
けれど、そのどこにも、レイリアのもう一つの姿――【拳姫】として戦場で果たしてきた役割や、その実力、人々から寄せられる信頼については触れられていなかった。
レイリアは何も答えない。
ただ無表情のまま、静かに立っている。
その沈黙を都合よく受け取ったのか、ミラが遠慮がちに一歩前へ出た。
「……レイリア様。どうか、お怒りにならないでください。私は殿下を奪おうなどと思っていたわけではないのです。ただ、殿下が私のような平民にもお優しくしてくださって……」
潤んだ瞳に、か細い声音――その姿は、まるで望まぬまま想いを向けられてしまったかのようにも見えた。
周囲の従者たちが、どこか同情を含んだ目を向ける。
するとディオンは、誇らしげにミラの肩へ手を添えて言った。
「私は真に清らかな心を持つ女性を妃に迎えたい。そしてミラ・コルネリアこそ、それにふさわしいと確信している」
その宣言に、部屋の空気がぴんと張りつめる。
けれど――当のレイリアは、相変わらずほとんど反応を見せなかった。
泣くでもなく、怒るでもなく、問い返すことすらない。
ただ、ぽつりと。
「……そうですか」
それだけだった。
期待していたものと違ったのだろう。
ディオンの目に、かすかな苛立ちが浮かぶ。
「君は……なぜ何も言わない?悔しくはないのか?誤解されたまま、黙って受け入れるつもりなのか?」
その言葉を受け、レイリアはほんの少しだけ目を見開いた。
けれどすぐにいつもの静かな表情へ戻り、小さく首を傾げてから視線を伏せる。
それから、いかにも興味が薄そうな様子のまま口を開いた。
「……誤解、というほど、興味を持たれていたとは思っていませんでしたので」
「なに……?」
ディオンが眉をひそめる。
レイリアはゆるやかに肩をすくめ、テーブルへカップを置いた。
「そもそもこの婚約は、王家のご都合で決まったものでしたよね。私の意思を尋ねられることもありませんでしたし……別に、望んで受けたものではありません」
淡々と事実だけを述べる声が、かえって室内を静かに冷やしていく。
それと同時に、ディオンの顔色がわずかに変わった。
「……どういう意味だ、それは」
「そのままの意味です。私はあなたに恋をしたこともありませんし、憧れたこともありません。数年前、王族との縁談だからと家が受け入れただけです。私は最初から、ただそこに置かれただけのお飾りのようなものでした。家族も、決して喜んでいたわけではありません……あのときの父と母の表情は、今でも覚えています」
静かで穏やかな口調のはずなのに、その言葉はディオンへまっすぐに突き刺さっていった。
それでもレイリアは、さらに続ける。
「でも、助かります。婚約という鎖が外れるのならこれでようやく気兼ねなく昼寝ができますから」
ふっと浮かんだ微笑みには、悔しさも悲しみもなかった。
まるで、長く背負わされていた荷をようやく下ろせたとでも言うように。
「っ……君は、本当に……!」
ディオンは言葉を詰まらせる。
怒りなのか、戸惑いなのか。
自分の思い描いていた反応とはあまりにも違うレイリアの態度に、完全に調子を崩しているようだった。
「ずっと無関心だったというのか? 私に……この婚約に、何の思いもなかったと?」
「ええ。最初から」
あまりにも簡単に、そしてはっきりと、彼女はそう告げた。
この場で繰り広げられているやり取りに、レイリアは心の底から興味を持てなかった。
王子としての体面も、平民の娘との新たな関係も、彼女にとってはどこまでも遠い。
ただ、この場にいる時間そのものが少し長い――それだけだった。
そしてふと、思い出したように口にする。
「まさか殿下、私があなたのことを好きだと思っていたのですか?」
「なっ……」
「――だって私、あなたのお名前を、一度もお呼びしたことがありませんよ?」
「っ……!!」
あくまで淡々とした口調だった。
けれど、そのひと言は何よりも明確だった。
レイリアはそれだけ告げると、椅子から離れ、スカートの裾を整える。
そして静かに一礼した。
「では、これにて失礼いたします……どうぞ、お幸せに」
言い終えると、彼女は何の未練もなく踵を返した。
そのまま、ゆっくりと扉へ向かって歩き出す。
もう王子も、ミラも、彼女の視界には入っていない。
ただ真っすぐに出口へ向かう、その後ろ姿だけが静かに遠ざかっていく。
部屋に残されたのは、何も言い返せず立ち尽くすディオンと、視線を床へ落としたまま沈黙するミラ・コルネリアだけだった。
アークフェン王宮の一室――白大理石の床が光を反射する、美しくもどこか冷ややかな応接室には、重たい沈黙が満ちていた。
レイリアはいつものように王族専用のその部屋に通され、王家の徽章が刻まれた長椅子に静かに腰を下ろしていた。
高窓から差し込む陽光が、豪奢な調度品に淡い陰影を落としている。
けれど彼女の視線はどこか虚空を漂い、あまりこの場に意識が向いていないようにも見えた。
(ふぁあ……早く終わらないかな)
胸の内でそんなことをぼんやりと思いながら、ティーカップに口をつける。
紅茶は香りこそ良いものの、特別好みに合うわけでもない。
早く帰って眠りたい。
それが駄目なら、少し身体を動かしたい。
そんな事を考えているうちに、扉が静かに開いた。
姿を現したのは、金色の髪に気品ある微笑みをたたえた青年――第二王子ディオン・アークフェン。
そのすぐ後ろには、栗色の巻き髪を揺らす可憐な少女、ミラ・コルネリアが控えるように立っていた。
「待たせたね、レイリア」
ディオンの声音はいつもどおり穏やかだった。
けれど、その響きにはどこか作りものめいた気配があるように感じながら。
もっとも、レイリアにとってはさして気にかけるほどのことでもなかった。
彼女はカップを置き、ゆっくりと立ち上がる。
「……いえ。別に、急いでいませんので」
その返答に、ディオンの唇が一瞬だけかすかに引きつった。
だが彼はすぐに何事もなかったように微笑みを整える。
「レイリア。本日は大事な話があるんだ」
「大事な話、ですか」
「そうだ」
そして彼は一歩前へ進み、静かに笑いながら告げた。
「レイリア・エルヴァーン。君との婚約を、ここに破棄する」
一拍の間が落ちる。
レイリアは静かに瞬きをした。
「……ああ、そうですか」
あまりにもあっさりとしたその返事に、ディオンの表情がわずかに曇る。
「理由は明白だ。君の、王族にふさわしいとは言えない数々の振る舞い……社交の場での気のない態度、礼を欠いた言動、周囲との調和を欠く振る舞い。どれを取っても未来の王妃としての資質があるとは言えない」
まるで舞台の上で台詞を読み上げるように、整然と言葉が並べられていく。
けれど、そのどこにも、レイリアのもう一つの姿――【拳姫】として戦場で果たしてきた役割や、その実力、人々から寄せられる信頼については触れられていなかった。
レイリアは何も答えない。
ただ無表情のまま、静かに立っている。
その沈黙を都合よく受け取ったのか、ミラが遠慮がちに一歩前へ出た。
「……レイリア様。どうか、お怒りにならないでください。私は殿下を奪おうなどと思っていたわけではないのです。ただ、殿下が私のような平民にもお優しくしてくださって……」
潤んだ瞳に、か細い声音――その姿は、まるで望まぬまま想いを向けられてしまったかのようにも見えた。
周囲の従者たちが、どこか同情を含んだ目を向ける。
するとディオンは、誇らしげにミラの肩へ手を添えて言った。
「私は真に清らかな心を持つ女性を妃に迎えたい。そしてミラ・コルネリアこそ、それにふさわしいと確信している」
その宣言に、部屋の空気がぴんと張りつめる。
けれど――当のレイリアは、相変わらずほとんど反応を見せなかった。
泣くでもなく、怒るでもなく、問い返すことすらない。
ただ、ぽつりと。
「……そうですか」
それだけだった。
期待していたものと違ったのだろう。
ディオンの目に、かすかな苛立ちが浮かぶ。
「君は……なぜ何も言わない?悔しくはないのか?誤解されたまま、黙って受け入れるつもりなのか?」
その言葉を受け、レイリアはほんの少しだけ目を見開いた。
けれどすぐにいつもの静かな表情へ戻り、小さく首を傾げてから視線を伏せる。
それから、いかにも興味が薄そうな様子のまま口を開いた。
「……誤解、というほど、興味を持たれていたとは思っていませんでしたので」
「なに……?」
ディオンが眉をひそめる。
レイリアはゆるやかに肩をすくめ、テーブルへカップを置いた。
「そもそもこの婚約は、王家のご都合で決まったものでしたよね。私の意思を尋ねられることもありませんでしたし……別に、望んで受けたものではありません」
淡々と事実だけを述べる声が、かえって室内を静かに冷やしていく。
それと同時に、ディオンの顔色がわずかに変わった。
「……どういう意味だ、それは」
「そのままの意味です。私はあなたに恋をしたこともありませんし、憧れたこともありません。数年前、王族との縁談だからと家が受け入れただけです。私は最初から、ただそこに置かれただけのお飾りのようなものでした。家族も、決して喜んでいたわけではありません……あのときの父と母の表情は、今でも覚えています」
静かで穏やかな口調のはずなのに、その言葉はディオンへまっすぐに突き刺さっていった。
それでもレイリアは、さらに続ける。
「でも、助かります。婚約という鎖が外れるのならこれでようやく気兼ねなく昼寝ができますから」
ふっと浮かんだ微笑みには、悔しさも悲しみもなかった。
まるで、長く背負わされていた荷をようやく下ろせたとでも言うように。
「っ……君は、本当に……!」
ディオンは言葉を詰まらせる。
怒りなのか、戸惑いなのか。
自分の思い描いていた反応とはあまりにも違うレイリアの態度に、完全に調子を崩しているようだった。
「ずっと無関心だったというのか? 私に……この婚約に、何の思いもなかったと?」
「ええ。最初から」
あまりにも簡単に、そしてはっきりと、彼女はそう告げた。
この場で繰り広げられているやり取りに、レイリアは心の底から興味を持てなかった。
王子としての体面も、平民の娘との新たな関係も、彼女にとってはどこまでも遠い。
ただ、この場にいる時間そのものが少し長い――それだけだった。
そしてふと、思い出したように口にする。
「まさか殿下、私があなたのことを好きだと思っていたのですか?」
「なっ……」
「――だって私、あなたのお名前を、一度もお呼びしたことがありませんよ?」
「っ……!!」
あくまで淡々とした口調だった。
けれど、そのひと言は何よりも明確だった。
レイリアはそれだけ告げると、椅子から離れ、スカートの裾を整える。
そして静かに一礼した。
「では、これにて失礼いたします……どうぞ、お幸せに」
言い終えると、彼女は何の未練もなく踵を返した。
そのまま、ゆっくりと扉へ向かって歩き出す。
もう王子も、ミラも、彼女の視界には入っていない。
ただ真っすぐに出口へ向かう、その後ろ姿だけが静かに遠ざかっていく。
部屋に残されたのは、何も言い返せず立ち尽くすディオンと、視線を床へ落としたまま沈黙するミラ・コルネリアだけだった。