世間ではぐうたら令嬢ですが、実は拳姫と戦場で呼ばれております。
第02話 裏の顔 ― 戦場の拳姫
数日前まで、のんびりと過ごしていたように見える彼女が、魔物の襲撃があった戦場に立っていたことを一体誰が知っているだろうか。
その日の戦場は、夜明け前の静けさに包まれていた。
空はまだ深い藍色をたたえ、地平線の彼方には、かすかな白みがにじみ始めている。
冷たい風が吹き抜けるたび、血と土、そして魔物の残した生臭さが入り混じって漂った。
王国軍の兵士たちは、固く身構えたまま前方を見据えている。
その視線の先、薄闇の向こうでは無数の魔物たちがうごめいていた。
低いうなり声、地を擦る爪の音、重く湿った息遣い。
それらがじわじわと迫るたび、兵たちの表情はこわばっていく。
「……数が多すぎる」
誰かの漏らした声は、押し殺していても震えを隠せなかった。
重装備の兵士たちでさえ、思わず後ずさりしそうになる。
夜明けまで持ちこたえられるのか――その不安が、隊列全体に重く垂れこめていた。
その時だった。
「……そこから離れて」
静かな、けれど不思議とよく通る声が響く。
兵士たちの間を抜け、一人の人物がゆっくりと前に出た。
深い色のフードを目深にかぶり、顔の半分は仮面で覆われている。
身につけているのは動きやすい軽装のみ。
剣も、槍も、弓も持っていない。
その手にある武器は、ただ己の拳だけだった。
「……来た」
誰かが息をのむ。
次の瞬間、兵士たちのあいだにざわめきが広がった。
「【拳姫】だ……」
「あの方が来たなら、この戦は勝てる!」
「持ちこたえろ、道を開けろ!」
恐怖に沈みかけていた空気が、目に見えるように変わっていく。
絶望に揺れていた眼差しに、わずかな光が宿った。
拳姫と呼ばれたその人物――レイリアは、何も答えなかった。
ただ淡々と歩みを進め、兵士たちの最前列を越える。
その足取りは静かで、気負いも誇示もない。
まるで、少し面倒な用事を片づけに来ただけであるかのようだった。
だが、その姿を認めた魔物たちは一斉に咆哮を上げた。
狼にも似た獣型の魔物が前脚で地を蹴り、巨大な牙をむいて襲いかかってくる。
続いて、背に硬い棘を生やした異形が低く身を沈め、左右から回り込むように迫った。
――その先頭に、レイリアは立つ。
ひとつ、静かに息を吸う。
そして拳を握った、その瞬間だった。
踏み込んだ地面が鈍く砕け、空気がはじける。
最初の一撃は、真正面から飛び込んできた獣型の魔物に向けられた。
レイリアの拳がその頭部を正確に捉えた途端、鈍い衝撃音が響き、巨体が横殴りに吹き飛ぶ。
魔物は地面を何度も跳ね、後方の仲間を巻き込みながら土煙の中へ沈んだ。
間を置かず、右手側から鋭い爪が振り下ろされる。
レイリアは半歩だけ身体をずらし、その軌道を紙一重で外した。
爪先がフードの端をかすめるより早く、彼女の肘が魔物の脇腹に深くめり込む。
鈍い破砕音――異形の身体がくの字に折れ、そのまま宙へ浮いた。
さらに背後から、別の一体が跳びかかる。
振り向きざま、レイリアは足を軸に身体をひねり、拳を下から突き上げた。
顎を打ち抜かれた魔物は悲鳴を上げる間もなく空中へはね上がり、夜明け前の薄い空に黒い影を描いて落ちる。
その光景を兵士たちは、ただ目を見開くばかりだった。
「……すごい」
「剣も抜いていないのか……」
「いや、あれでは剣より速い……」
だが、魔物の群れは止まらない。
前列が崩れても、その隙間を埋めるように次々と後続が押し寄せる。
地面が震え、咆哮が重なり、黒い波のように押し寄せるその光景は、常人なら一歩で心を折られてもおかしくなかった。
それでもレイリアの表情は変わらない。
迫る一体の首筋を拳で打ち抜き、返す動きのまま隣の魔物の喉元へ掌底を叩き込む。
よろめいた個体の足元を払えば、巨体はあっけなく地に伏した。
そこへさらに跳び込んできた一体には、踏み込みと同時に短く鋭い一撃を胸元へ。
衝撃を受けた魔物の身体が大きくのけぞり、そのまま後方の群れへ突っ込んで数体まとめて倒れ込む。
血しぶきが散り、骨の砕ける音が冷たい空気を震わせた。
けれど、レイリアの動きには乱れがない。
無駄がなく、静かで、そして圧倒的だった。
ひとつ打ち倒し、ひとつ避け、そして、ひとつ沈める。
その繰り返しだけで、魔物の群れは少しずつ、確かに崩れていく。
やがて、後方に控えていたひときわ大きな魔物が前へ出た。
兵士たちの背筋が強張るのが分かる。
二本の角を持つその巨体は、人の倍以上の背丈があり、腕の一振りだけで数人を吹き飛ばせそうな威圧感を放っていた。
「あれは……上位種だ!」
「まずい、拳姫様でも――」
制止の声が上がるより先に、巨体が地を踏み抜くようにして迫る。
振り下ろされた腕は、風圧だけで砂塵を巻き上げた。
レイリアは逃げない。逃げることはしない。
わずかに腰を落とし、その一撃を真正面から見据える。
激突の寸前、彼女は半身になってその腕を流した。
巨体の勢いがぶれた、その一瞬。
踏み込み、懐へ潜り込み、腹部へ一撃。
低く重い音が響く。
上位種の身体がぐらりと揺れた。
それでも倒れない。
怒り狂った魔物が吠え、腕を薙ぎ払う。
レイリアは跳ねるように距離を取り、その直後、再び前へ。
今度は胸元、続けて喉元、そして最後に顎下へと、三つの打撃が流れるように叩き込まれる。
大きな身体が、ついに後ろへ傾いだ。
――そこで終わらせるように。
レイリアは地を強く踏みしめ、渾身の一拳を振り抜いた。
乾いた破裂音にも似た衝撃が走り、上位種の巨体は耐えきれず大きく吹き飛ぶ。
土を巻き上げながら地面へ倒れ伏したその姿は、もう二度と動かなかった。
それを境に、残った魔物たちの動きが目に見えて鈍る。
恐れたように後ずさるもの、向きを変えて逃げようとするものもいた――だがレイリアは容赦なく前へ出る。
(……逃がさない)
ただ静かに、確実に、一体ずつ片づけていく。
そして――最後の一体が地に沈んだ。
戦場に残ったのは、しんとした静寂だけだった。
荒れていた空気がゆっくりと落ち着き、東の空には淡い朝の光が広がり始めている。
レイリアは拳に付いた血を軽く払い、ふう、と小さく息をついた。
肩で息をすることもなく、表情もほとんど変わらない。
(……終わった)
胸の内で、そう確かめる。
(さっさと終わらせて、寝たい……)
ただ、それだけだった。
背後では、ようやく我に返った兵士たちが歓声を上げ始める。
「勝ったぞ!」
「【拳姫】のおかげだ!」
「助かった……本当に、助かった……!」
それでもレイリアは振り返らない。
賞賛を受け取るでもなく、ただ静かに踵を返す。
夜明けの光が、フードの端をかすかに照らした。
誰も知らない。
この戦場で英雄のように称えられる存在が――数日後には王都の夜会で、【ぐうたら令嬢】とささやかれる少女と同じ人物であることを。
その日の戦場は、夜明け前の静けさに包まれていた。
空はまだ深い藍色をたたえ、地平線の彼方には、かすかな白みがにじみ始めている。
冷たい風が吹き抜けるたび、血と土、そして魔物の残した生臭さが入り混じって漂った。
王国軍の兵士たちは、固く身構えたまま前方を見据えている。
その視線の先、薄闇の向こうでは無数の魔物たちがうごめいていた。
低いうなり声、地を擦る爪の音、重く湿った息遣い。
それらがじわじわと迫るたび、兵たちの表情はこわばっていく。
「……数が多すぎる」
誰かの漏らした声は、押し殺していても震えを隠せなかった。
重装備の兵士たちでさえ、思わず後ずさりしそうになる。
夜明けまで持ちこたえられるのか――その不安が、隊列全体に重く垂れこめていた。
その時だった。
「……そこから離れて」
静かな、けれど不思議とよく通る声が響く。
兵士たちの間を抜け、一人の人物がゆっくりと前に出た。
深い色のフードを目深にかぶり、顔の半分は仮面で覆われている。
身につけているのは動きやすい軽装のみ。
剣も、槍も、弓も持っていない。
その手にある武器は、ただ己の拳だけだった。
「……来た」
誰かが息をのむ。
次の瞬間、兵士たちのあいだにざわめきが広がった。
「【拳姫】だ……」
「あの方が来たなら、この戦は勝てる!」
「持ちこたえろ、道を開けろ!」
恐怖に沈みかけていた空気が、目に見えるように変わっていく。
絶望に揺れていた眼差しに、わずかな光が宿った。
拳姫と呼ばれたその人物――レイリアは、何も答えなかった。
ただ淡々と歩みを進め、兵士たちの最前列を越える。
その足取りは静かで、気負いも誇示もない。
まるで、少し面倒な用事を片づけに来ただけであるかのようだった。
だが、その姿を認めた魔物たちは一斉に咆哮を上げた。
狼にも似た獣型の魔物が前脚で地を蹴り、巨大な牙をむいて襲いかかってくる。
続いて、背に硬い棘を生やした異形が低く身を沈め、左右から回り込むように迫った。
――その先頭に、レイリアは立つ。
ひとつ、静かに息を吸う。
そして拳を握った、その瞬間だった。
踏み込んだ地面が鈍く砕け、空気がはじける。
最初の一撃は、真正面から飛び込んできた獣型の魔物に向けられた。
レイリアの拳がその頭部を正確に捉えた途端、鈍い衝撃音が響き、巨体が横殴りに吹き飛ぶ。
魔物は地面を何度も跳ね、後方の仲間を巻き込みながら土煙の中へ沈んだ。
間を置かず、右手側から鋭い爪が振り下ろされる。
レイリアは半歩だけ身体をずらし、その軌道を紙一重で外した。
爪先がフードの端をかすめるより早く、彼女の肘が魔物の脇腹に深くめり込む。
鈍い破砕音――異形の身体がくの字に折れ、そのまま宙へ浮いた。
さらに背後から、別の一体が跳びかかる。
振り向きざま、レイリアは足を軸に身体をひねり、拳を下から突き上げた。
顎を打ち抜かれた魔物は悲鳴を上げる間もなく空中へはね上がり、夜明け前の薄い空に黒い影を描いて落ちる。
その光景を兵士たちは、ただ目を見開くばかりだった。
「……すごい」
「剣も抜いていないのか……」
「いや、あれでは剣より速い……」
だが、魔物の群れは止まらない。
前列が崩れても、その隙間を埋めるように次々と後続が押し寄せる。
地面が震え、咆哮が重なり、黒い波のように押し寄せるその光景は、常人なら一歩で心を折られてもおかしくなかった。
それでもレイリアの表情は変わらない。
迫る一体の首筋を拳で打ち抜き、返す動きのまま隣の魔物の喉元へ掌底を叩き込む。
よろめいた個体の足元を払えば、巨体はあっけなく地に伏した。
そこへさらに跳び込んできた一体には、踏み込みと同時に短く鋭い一撃を胸元へ。
衝撃を受けた魔物の身体が大きくのけぞり、そのまま後方の群れへ突っ込んで数体まとめて倒れ込む。
血しぶきが散り、骨の砕ける音が冷たい空気を震わせた。
けれど、レイリアの動きには乱れがない。
無駄がなく、静かで、そして圧倒的だった。
ひとつ打ち倒し、ひとつ避け、そして、ひとつ沈める。
その繰り返しだけで、魔物の群れは少しずつ、確かに崩れていく。
やがて、後方に控えていたひときわ大きな魔物が前へ出た。
兵士たちの背筋が強張るのが分かる。
二本の角を持つその巨体は、人の倍以上の背丈があり、腕の一振りだけで数人を吹き飛ばせそうな威圧感を放っていた。
「あれは……上位種だ!」
「まずい、拳姫様でも――」
制止の声が上がるより先に、巨体が地を踏み抜くようにして迫る。
振り下ろされた腕は、風圧だけで砂塵を巻き上げた。
レイリアは逃げない。逃げることはしない。
わずかに腰を落とし、その一撃を真正面から見据える。
激突の寸前、彼女は半身になってその腕を流した。
巨体の勢いがぶれた、その一瞬。
踏み込み、懐へ潜り込み、腹部へ一撃。
低く重い音が響く。
上位種の身体がぐらりと揺れた。
それでも倒れない。
怒り狂った魔物が吠え、腕を薙ぎ払う。
レイリアは跳ねるように距離を取り、その直後、再び前へ。
今度は胸元、続けて喉元、そして最後に顎下へと、三つの打撃が流れるように叩き込まれる。
大きな身体が、ついに後ろへ傾いだ。
――そこで終わらせるように。
レイリアは地を強く踏みしめ、渾身の一拳を振り抜いた。
乾いた破裂音にも似た衝撃が走り、上位種の巨体は耐えきれず大きく吹き飛ぶ。
土を巻き上げながら地面へ倒れ伏したその姿は、もう二度と動かなかった。
それを境に、残った魔物たちの動きが目に見えて鈍る。
恐れたように後ずさるもの、向きを変えて逃げようとするものもいた――だがレイリアは容赦なく前へ出る。
(……逃がさない)
ただ静かに、確実に、一体ずつ片づけていく。
そして――最後の一体が地に沈んだ。
戦場に残ったのは、しんとした静寂だけだった。
荒れていた空気がゆっくりと落ち着き、東の空には淡い朝の光が広がり始めている。
レイリアは拳に付いた血を軽く払い、ふう、と小さく息をついた。
肩で息をすることもなく、表情もほとんど変わらない。
(……終わった)
胸の内で、そう確かめる。
(さっさと終わらせて、寝たい……)
ただ、それだけだった。
背後では、ようやく我に返った兵士たちが歓声を上げ始める。
「勝ったぞ!」
「【拳姫】のおかげだ!」
「助かった……本当に、助かった……!」
それでもレイリアは振り返らない。
賞賛を受け取るでもなく、ただ静かに踵を返す。
夜明けの光が、フードの端をかすかに照らした。
誰も知らない。
この戦場で英雄のように称えられる存在が――数日後には王都の夜会で、【ぐうたら令嬢】とささやかれる少女と同じ人物であることを。