世間ではぐうたら令嬢ですが、実は拳姫と戦場で呼ばれております。

第04話 家族の激怒

 レイリア・エルヴァーンが静かに屋敷の玄関をくぐったのは、夕刻のことだった。
 控えていた従者が慌てたように何かを尋ねようとしたが、彼女は軽く手を上げてそれを制する。
 胸の奥に重たい感情はなかった。
 ただひとつ、彼女の中にあったのは清々しい気持ち。

(……ふぅ。やっと終わった)

 そんな、気の抜けた思いだけだった。
 居間では、長椅子に腰掛けていた母カティアが、そっと紅茶のカップを置くところだった。
 同じ部屋には姉のセリナとリヴィア、兄のアレクの姿もある。
 さらに、書斎から出てきたばかりの父グレイスもそこにいた。

「――帰ったのね」

 カティアが穏やかに声をかける。
 レイリアはこくりと頷き、いつもと変わらない調子で口を開いた。

「ただいま帰りました、母様、父様、姉様方、兄様……ええと、ご報告があります。婚約破棄されました」

 玄関からそのまま居間へやってきた彼女は、まるで今日の天気でも伝えるような調子でそう告げた。
 あまりにもあっさりとした声音に、その場の空気が一瞬で凍りつく。
 家族全員の動きが止まった。
 次の瞬間――父、グレイス・エルヴァーンが勢いよく立ち上がった。
 そして、そのまま目の前の重厚な机へ拳を叩きつける。

 ――ゴンッ!

 鈍い音が響き、分厚い天板に白くひびが走った。

「……王家が、我が娘を侮辱したというのか」

 低く、静かな声だ。
 けれど、その静けさの奥には、抑え込まれた怒りがはっきりと滲んでいる。
 長年尽くしてきた忠義を踏みにじられた父親の怒りは、むしろ静かであるほど恐ろしかった。
 そんな父を前に、レイリアはきょとんと目を瞬かせる。

「えっと……そんなに驚くことでした?」

 まるで紅茶の感想でも口にするように、軽く肩をすくめる。

「『王族にふさわしくない行動の数々』が理由だそうです。まあ、面倒だったので、あまり細かくは聞きませんでしたけど。どうやら、もう別のお相手もいるみたいでしたし……最後に『お幸せに』とは言っておきました」

 まるで自分には関係のない話のように言うレイリアに、母カティアはゆるやかに唇をほころばせた。
 けれど、その目は少しも笑っていない。
 むしろ氷のように冷えた視線が、見えない何かを射抜いているようだった。

「そう……やっぱり、そうなったのね。あなたのような娘を持つと、こちらの気苦労は尽きないわ」

 声音はとろけるように優しい。
 だが、その奥底に王家への怒りが潜んでいることは誰の目にも明らかだった。
 カティアは静かに、けれどはっきりと言う。

「でも安心なさい。あなたをこの手で育ててきた母として、私は誇りに思っているわ――その価値を見誤った方々にはきちんと後悔していただきましょう」
「え、母様?」

 その言葉に、レイリアはぱちぱちと目を瞬かせた。
 まさかそこまで怒るとは思っていなかったのだろう。

 すると、姉のセリナが静かに立ち上がる。
 細身の身体に宿る知性、そして眼鏡の奥にのぞく冷たい光。
 その姿は、王国でも名の知れた【雷の魔女】の異名を思わせた。

「理由なんて聞くまでもないわね。どうせ王家の体面を守るためにレイリアを切り捨てたのでしょう」

 淡々とした口調のまま、言葉だけが鋭く落とされる。
 続いて、次女のリヴィアが片手を腰に当てて、呆れたように息をついた。

「ほんと、馬鹿よね。うちの可愛いレイリアにそんな真似するなんて、命知らずにもほどがあるわ。あの拳でどれだけの魔物が吹き飛んだか、知らなかったのかしら?」

 軽い調子に聞こえるが、その瞳の奥にははっきりと怒りが宿っていた。
 兄のアレクもまた、戸惑いをにじませながら、それでも真っすぐレイリアを見る。

「レイリアが本当に傷ついてないなら、それでいい。けど……俺は許せない。俺の可愛いレイリアが、あんな男にふさわしくないなんてこと、そんなはずないって、家族の中でも俺が一番よく知ってる」

 そう言って強く拳を握る兄の姿に、レイリアは思わず小さく笑った。

「ありがと、兄様。でも大丈夫。私は本当に気にしてないから。むしろ、やっと婚約者っていう鎖が外れて、せいせいしたくらいだし……これで、ゆっくり眠れそう」

 あっけらかんと言ってみせる。
 けれど、その言葉が家族の怒りにさらに火を注ぐであろうことを、レイリアはうっすらと分かっていた。

 ――それでも嫌ではなかった。

 自分が怒るより先に、家族が怒ってくれる。
 それが少しくすぐったくて、でも、ほんの少しだけ嬉しい。
 ずっと【令嬢】としての価値ばかりを測られてきた彼女にとって、この家族だけはずっとレイリア自身を見ていてくれたのだから。
 ふと、思い出したようにレイリアが首を傾げる。

「あ、そういえば」

 家族の視線が一斉に集まる。
 本人はまるで大したことではないような顔で、のんびりと続けた。

「実は、もともと殿下にはお好きな方がいらしたみたいです。たしか平民の方で……その方と結婚なさるつもりみたいでした」

 ぴたり、と空気が止まった。

「……は?」

 最初に声を漏らしたのはリヴィアだった。
 笑みが消え、こめかみが引きつっている。
 セリナも目を細める

「つまり何かしら。最初から他に想う相手がいながら、レイリアを婚約者の席に置いていた、ということ?」
「たぶん、そういうことだと思います」

 レイリアは悪気なく頷く。

「婚約者のミラさん、でしたっけ。彼女にも謝罪されましたよ。まあ……ちょっと上から目線でしたけど」

 その一言で、室内の温度がさらに下がった。
 カティアが、にこりと微笑む。
 それは確かに美しい微笑みだったが、母をよく知る家族ほどその笑顔が危険であることを理解していた。

「上から目線、ですって?」
「ええ。なんというか……『怒らないでくださいね』『奪うつもりではなかったんです』みたいな感じで」

 そこまで言ったところで、グレイスの拳が再び机を鳴らした。

 ――ゴンッ!

 今度は先ほどよりも低く、重い音が響く。

「王子が不義を働き、その相手が我が娘に施しのような謝罪を口にしたというのか」

 静かな声音だった。
 だが、その奥に潜む怒気は先ほどよりもはるかに濃い。

「ふざけてる……何それ」

 リヴィアが吐き捨てるように言う。
 その顔からは、いつもの軽い調子がすっかり消えていた。

「レイリアを散々蔑ろにしておいて、最後は平民の恋人とめでたしめでたし?そのうえ、相手の女まで謝れば済むと思ってるの?本気で?」
「どうやら、王家もその娘も、礼儀というものを根本から学び直したほうがよさそうね」

 セリナの声音は静かだった。
 けれど、その静けさがかえって恐ろしい。

「婚約とは個人の情だけで結んでよいものではないわ。家と家、立場と立場の重みがある。そこへ平然と泥を塗ったのなら、軽率では済まされないでしょうに」

 アレクもまた、怒りを押し殺した顔でレイリアを見る。

「……レイリア。本当に、嫌な思いはしてない?」
「してないよ、兄様」
「無理してない?」
「してないってば」
「泣きたくなったりは」
「なってないよ」
「本当に?」
「兄様、しつこい」

 そこまで言っても、アレクの表情は晴れない。
 むしろ、妹がけろりとしていることが余計に胸に刺さるらしかった。

「僕なら無理だ。そんなこと言われたら、その場で盾を捨てて殴ってる。完膚なきまで手を止めないよ」
「兄様がそれ言うと洒落にならないよ……」

 レイリアが少しだけ苦笑すると、カティアは優雅に扇を閉じた。

「なるほどね。話はよく分かったわ」

 その言葉に、家族全員が母を見る。

「レイリアをないがしろにしただけではなく、最初から別の女を想っていて、その相手に謝罪までさせた。しかも、それが見下したような態度だった……」

 そこでカティアは一度言葉を切り、にっこりと笑った。

「想像以上に、失礼な方々だったのね」
「母様、笑ってるけど全然笑ってない……」

 レイリアの小さな呟きに、グレイスが低く続ける。

「もはや未練どころか、義理すら感じる必要はないな」

 やがて、静かに立ち上がったのは母カティアだった。
 何も言わずに紅茶を飲み干し、優雅に微笑む。

「――帰りましょう」

「え?」

 レイリアが首を傾げると、カティアはさらりと言った。

「私の故郷――アルディナ王国へ。もう、この国に未練などありません」

 その一言で、部屋の空気ががらりと変わる。
 セリナはすぐに頷いた。

「賛成よ。むしろ、どうして今まで我慢していたのかしら」

 リヴィアはにやりと笑う。
 だがその目は、少しも笑っていなかった。

「レイリアを【ぐうたら】なんて言ってた人たちも、婚約者の座を軽く見てた人たちも、絶対あとで後悔するわよ。ほんと、いい気味だわ」

 アレクも複雑そうな表情を浮かべながら、それでも力強く頷いた。

「家族で行こう。俺は、レイリアの力をちゃんと知ってるから」

 グレイスは静かに剣の柄へ手を添える。

「カティア、お前の決断に異論はない。エルヴァーン家は、もはやこの国への忠義に縛られる必要はない」

 そんな家族のやり取りを聞きながら、レイリアはそっとソファへ身を沈めた。
 そして、ぽつりとつぶやく。

「……引っ越し、面倒だけど」

 少し間を置いてから、ふっとやわらかく笑う。

「家族と一緒なら、まあ……いいかな」
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