世間ではぐうたら令嬢ですが、実は拳姫と戦場で呼ばれております。

第08話 最強の騎士とぐうたら令嬢

 ある日のアルディナ王国、王都フィル=カーネ。
 広大な庭園と噴水を備えた宮廷の一角――東のサロンでは、その日も上流階級の貴婦人たちが紅茶と噂話に花を咲かせていた。
 そして話題は、自然とエルヴァーン家の末娘へと向かう。

「ねえ、ご覧になって? エルヴァーン家の末娘、また舞踏会で壁際に座っていらしたそうよ」
「ええ。それどころか居眠りしていたって聞きましたわ。【ぐうたら令嬢】なんて、あの方にぴったりの呼び名ではなくて?」
「まったく……母親が元王女でも、あれでは社交界の恥ですわねぇ」

 扇子の陰に口元を隠しながら、令嬢たちはくすくすと笑い合う。

 ――レイリア・エルヴァーン。

 侯爵令嬢にして、王族の血を引く名門の娘。
 それなのに、どの場でも気だるげで愛想がなく、やる気も感じられない。
 そんな彼女についた渾名が――【ぐうたら令嬢】だった。

「お姉様方はあれほど見事な剣や弓の使い手ですのに……どうしてあの子だけ、ああなのかしら」
「見た目は悪くないのですけれどね。うちの弟に紹介しようかと思っていましたけれど、やめておいて正解でしたわ」

 憐れみ半分、嘲笑半分。
 けれど、そんな噂を向けられている本人はといえば――

「……ふぁ……眠い……」

 城下の喫茶店、そのテラス席。
 レイリアは紅茶を片手に、のんびりと欠伸をこぼしていた。
 強い日差しが苦手な彼女は、店主に頼み込んで特製の日除けを用意してもらい、ふかふかのクッションに埋もれている。

「やっぱり、ここは風が通って気持ちいいわね……んー……落ち着く……」

 その姿だけを見れば、誰がどう見ても戦場とは無縁のお嬢様だ。
 だがその裏で、まったく別の【伝説】が、静かに語られ始めていた。

  ▽ ▽ ▽

「……最近また、【拳姫】が現れたらしいぞ」
「マジか。今度は北の魔物討伐で、牙持つ大猿を一撃で沈めたって話だ」
「素手で、だろ? 本当なら人間じゃねえな」

 兵舎の片隅――兵士たちの間では、ひそかに【拳姫】の話題が持ち上がっていた。

 顔を隠し、言葉も少ない謎の戦士。
 槍も剣も使わず、ただ拳ひとつで魔物を打ち倒す存在。
 戦場でその名は、今も少しずつ広がり続けている。

「王都の貴族様たちは知らねえだろうけど……あの人が出てきたら、前線は本気で助かるんだよ」
「でも、素顔を見た者はいないんだろ? 正体はいったい誰なんだ?」
「まさか王族ってことは……ないよな」

 兵士たちが笑い合う、その後ろで。
 通りすがりの騎士が、ふと足を止めた。

「――拳姫、か」

 低く呟く一人の青年。
 兵たちの会話に耳を傾けながら、彼はわずかに眉をひそめる。
 そして、何かを思うように視線を遠くへ向けた。

  ▽ ▽ ▽

 午後の陽射しが穏やかに差し込む、王都西部の軍訓練場。
 広々とした演習場では、兵たちの掛け声と剣戟の音が飛び交い、汗と砂埃が混ざって熱気を帯びていた。

「もっと踏み込め!腕が甘い!それでは魔物の牙は止められん!」

 鋭い声とともに、一人の男が兵士たちを指導している。
 ゼロス・ヴァルトール――この国で最強と名高い寡黙な騎士である。
 漆黒の鎧、鋭い眼光、隙のない立ち姿。
 その全てが人を寄せつけない威圧感を纏っていた。
 兵士たちは彼の指導に黙々と従い、まるで空気そのものまで張りつめているようだった。

 ――そんな場所に、ひどく場違いな人物が、ふらりと現れる。

「いーち、にー、さーん……」

 ゆるい声とともに、軽く身体を伸ばしながら現れたのは、一人の少女だった。
 涼しげなドレスに、のんびりとした足取り。
 その表情は眠たげで、どこかぼんやりしている。

「……あ、風が気持ちいい……」

 少女――レイリア・エルヴァーンは、砂の舞う演習場の外れに立ち、心地よさそうに小さく欠伸をする。
 その姿を見つけた兵士たちは、あからさまに目を丸くした。

「あれってエルヴァーン家の……末娘の令嬢!?」
「なんでこんなところに……」
「迷ったのか? いや、でもあれ、迷子って顔でもないよな……?」

 訓練の場に突如現れた貴族令嬢。
 それだけで空気はぴりついた。
 そして、その異物を真っ先に捉えたのが、場を指揮していたゼロスだった。

「……貴族の娘が、何の用だ」

 冷たい声が、演習場の空気をさらに凍らせる。
 兵士たちが一斉に黙り込む中、レイリアはといえば、その問いかけに首を傾げて、ぽつりと答えた。

「……昼寝できる場所を探してたのと、ついでに少し体を動かそうと思って」

 一瞬、時が止まる。
 演習場全体が凍りついたような沈黙。
 剣の素振りをしていた兵士が、思わず手を止めた。

「…………」
「…………」

 誰もが耳を疑った。
 たしかに彼女は今、そう言ったのだ。

 ――昼寝をする場所を探していた、と。

 沈黙の中で、ゼロスが小さく息を吐く。

「……くだらん」

 たった一言。
 けれどそれは、鋭い刃のように空気を切り裂いた。
 兵士たちの顔が一斉に青ざめる。
 ゼロスがここまで露骨に不機嫌さを見せるのは珍しい。
 だが、当のレイリアはまるで気にした様子もない。
 肩をすくめながら、ぼそりとつぶやく。

「……堅物すぎて、ちょっとやだ」

 その一言に、兵士たちは再び凍りついた。

(終わった……)
(この人、命知らずすぎる……!)

 ゼロスの眉が、ぴくりと動く。
 静かな視線が、まっすぐレイリアへ向けられた。
 けれど彼女は怯えるどころか、日傘をくるりと回しながら、また空を見上げている。

「このへん、昼寝には向いてないかなぁ……もう少し静かで、軽く身体を動かせるところがいいんだけど……」

 そんなことをつぶやきながら、レイリアはのんびりとその場を離れていった。
 誰も、何も言えなかった。
 最強の騎士と呼ばれるゼロス。
 【ぐうたら令嬢】と呼ばれるレイリア。
 彼らの最悪の初対面は、あまりにも静かで、けれどあまりにも強烈な一幕となった。

 ――だがこの出会いが、やがて二人の運命を大きく変えていくことになるとは。
 そのときの誰も、まだ知らなかった。
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