世間ではぐうたら令嬢ですが、実は拳姫と戦場で呼ばれております。
第09話 ゼロス・ヴァルトールと言う男
アルディナ王国軍――西部方面軍総本部。
その一角にある武具庫の裏で、一人の男が静かに剣を磨いていた。
――ゼロス・ヴァルトール。
黒髪に鋭い銀の瞳。
その身のこなしは獣のように静かで、どんな場所でも気配をほとんど感じさせない。
その名を聞けば、王国の兵士たちは皆、口を閉ざして背筋を正す。
《蒼刃の死神》。
それが、彼に与えられた異名だった。
青白い光を帯びる魔槍《アズレア》を操り、戦場ではひたすら敵を斬り伏せる。
相手が魔物であれ盗賊であれ、その一撃に容赦はない。
血も涙もないとさえ噂されるその戦いぶりは、まさしく【死神】の名にふさわしかった。
だが、そんな彼にも――戦場では決して見せない、ひとつの思考の癖があった。
(……あの女)
剣の手入れを終え、ゼロスはふと空を見上げる。
脳裏に浮かんだのは、昼間、訓練場にふらりと現れた金髪の少女の姿だった。
――レイリア・エルヴァーン。
カティア・アルディナの末娘。
見た目だけなら名門の令嬢らしく整っている。
だが中身はまるで締まりがなく、気の抜けた受け答えに、場の空気を読む様子もない。
以前いた王国でも【ぐうたら令嬢】などと呼ばれていたらしい。
そしてゼロスにとって、その少女はひどく不快な存在だった。
「昼寝の場所を探していただけ、だと……?」
無意識にこぼれた声が、乾いた空気の中へ溶けていく。
あの緊張感に満ちた訓練場で。
兵士たちが汗を流し、命をつなぐための鍛錬を積んでいるその場所で。
あの娘は、まるで庭園を散歩でもするような顔で現れた。
昼寝。
ついでに運動。
それだけだと、悪びれもせず口にした。
思い出すだけで、ゼロスの眉間に深い皺が寄る。
(……ふざけている)
軍の訓練場は遊び場ではない。
命を懸ける者たちの場所だ。
そこであんな気の抜けた態度を取れること自体、彼には理解できなかった。
(甘やかされて育った、典型的な貴族の娘だ)
そう断じるほかなかった。
現実の重みも、戦うことの意味も知らない。
守られる側であることを当然のように受け入れ、危機感もなく生きてきた女。
だからこそ、あの場でへらりと立っていたレイリアの姿が、妙に神経を逆撫でした。
しかも――。
(俺を見ても、まるで何も感じていない顔をしていた)
恐れも、緊張も、警戒もなかった。
敬意ですらない。
ただ一言。
『堅物すぎて、ちょっとやだ』
そのように言った、あの気の抜けた目。
あれが、ゼロスには腹立たしかった。
彼を恐れる者は多い。
実際、そうあるべきだとも思っている。
戦場に立つ人間は、甘さを許してはならない。
それなのにあの娘は、自分の前でも空気ひとつ変えなかった。
それが無知ゆえなのか、ただ鈍いだけなのか。
あるいは――別の何かか。
考えたところで、不快感が薄れることはなかった。
▽ ▽ ▽
――十数年前。
まだゼロスが幼い少年だった頃、彼は戦災孤児だった。
家を焼かれ、村を失い、飢えと寒さの中で倒れかけていた自分を救ったのは――カティア・アルディナだった。
高貴で、美しく、誇り高い王女。
けれどそれだけではない。
槍を手に自ら戦場へ立ち、子ども一人にもきちんと手を差し伸べる人だった。
ゼロスは彼女に憧れた。
彼女のように強くありたいと願った。
だから剣を握った。
だから今も、この国のために戦っている。
だからこそ――
(その娘が、あんな有様だというのが気に食わん)
あれほど立派な人の血を引いていながら、どうしてああも覇気がないのか。
どうしてああも、何もかもを面倒くさそうに眺めていられるのか。
カティアが命を懸けて守ろうとしたもの。
彼女がその身で背負ってきた責任。
そうした重みを、あの娘は何ひとつ知らずに生きてきたように見えた。
それが、苛立たしかった。
腹立たしかった。
そして何より、失望に近い感情すら覚えていた。
(あの方の娘でなければ、気にも留めなかった)
そう思った瞬間、自分の中にある感情の強さを、ゼロスはあらためて自覚する。
ただの怠けた令嬢なら、無視すればいいだけだ。
だが、レイリア・エルヴァーンは違う。
あの人の娘だ――自分が敬い、憧れ、今なお恩義を忘れられない人の娘。
だからなおさら、許しがたかった。
(……なのに、何故だ)
ふと、昼間の光景がまた脳裏をよぎる。
レイリア・エルヴァーンの目。
眠たげで、気だるくて、世界のすべてに関心がないような目。
それなのに、ごくまれに――ほんの一瞬だけ、底の見えない深淵のような影が宿る。
ぞくり、と胸の奥に言いようのない違和感が走る。
(あれは……何だ)
怠惰なだけの娘なら、あんな目はしない。
何も知らぬ温室育ちの令嬢なら、あんな一瞬の冷たさは宿さない。
ゼロスは剣を鞘へ納め、低く息を吐いた。
「くだらん……俺が気にすることではない」
そう言い聞かせるようにつぶやき、訓練場へ戻る。
だが、心の片隅には小さな棘のような違和感が残り続けていた。
苛立つ。
目障りだ。
理解できない。
それなのに、どうしても意識から追い出せない。
(――レイリア・エルヴァーン)
その名が今後、自分の運命を大きく揺るがすことになるなど。
この時のゼロスは、まだ知る由もなかった。
その一角にある武具庫の裏で、一人の男が静かに剣を磨いていた。
――ゼロス・ヴァルトール。
黒髪に鋭い銀の瞳。
その身のこなしは獣のように静かで、どんな場所でも気配をほとんど感じさせない。
その名を聞けば、王国の兵士たちは皆、口を閉ざして背筋を正す。
《蒼刃の死神》。
それが、彼に与えられた異名だった。
青白い光を帯びる魔槍《アズレア》を操り、戦場ではひたすら敵を斬り伏せる。
相手が魔物であれ盗賊であれ、その一撃に容赦はない。
血も涙もないとさえ噂されるその戦いぶりは、まさしく【死神】の名にふさわしかった。
だが、そんな彼にも――戦場では決して見せない、ひとつの思考の癖があった。
(……あの女)
剣の手入れを終え、ゼロスはふと空を見上げる。
脳裏に浮かんだのは、昼間、訓練場にふらりと現れた金髪の少女の姿だった。
――レイリア・エルヴァーン。
カティア・アルディナの末娘。
見た目だけなら名門の令嬢らしく整っている。
だが中身はまるで締まりがなく、気の抜けた受け答えに、場の空気を読む様子もない。
以前いた王国でも【ぐうたら令嬢】などと呼ばれていたらしい。
そしてゼロスにとって、その少女はひどく不快な存在だった。
「昼寝の場所を探していただけ、だと……?」
無意識にこぼれた声が、乾いた空気の中へ溶けていく。
あの緊張感に満ちた訓練場で。
兵士たちが汗を流し、命をつなぐための鍛錬を積んでいるその場所で。
あの娘は、まるで庭園を散歩でもするような顔で現れた。
昼寝。
ついでに運動。
それだけだと、悪びれもせず口にした。
思い出すだけで、ゼロスの眉間に深い皺が寄る。
(……ふざけている)
軍の訓練場は遊び場ではない。
命を懸ける者たちの場所だ。
そこであんな気の抜けた態度を取れること自体、彼には理解できなかった。
(甘やかされて育った、典型的な貴族の娘だ)
そう断じるほかなかった。
現実の重みも、戦うことの意味も知らない。
守られる側であることを当然のように受け入れ、危機感もなく生きてきた女。
だからこそ、あの場でへらりと立っていたレイリアの姿が、妙に神経を逆撫でした。
しかも――。
(俺を見ても、まるで何も感じていない顔をしていた)
恐れも、緊張も、警戒もなかった。
敬意ですらない。
ただ一言。
『堅物すぎて、ちょっとやだ』
そのように言った、あの気の抜けた目。
あれが、ゼロスには腹立たしかった。
彼を恐れる者は多い。
実際、そうあるべきだとも思っている。
戦場に立つ人間は、甘さを許してはならない。
それなのにあの娘は、自分の前でも空気ひとつ変えなかった。
それが無知ゆえなのか、ただ鈍いだけなのか。
あるいは――別の何かか。
考えたところで、不快感が薄れることはなかった。
▽ ▽ ▽
――十数年前。
まだゼロスが幼い少年だった頃、彼は戦災孤児だった。
家を焼かれ、村を失い、飢えと寒さの中で倒れかけていた自分を救ったのは――カティア・アルディナだった。
高貴で、美しく、誇り高い王女。
けれどそれだけではない。
槍を手に自ら戦場へ立ち、子ども一人にもきちんと手を差し伸べる人だった。
ゼロスは彼女に憧れた。
彼女のように強くありたいと願った。
だから剣を握った。
だから今も、この国のために戦っている。
だからこそ――
(その娘が、あんな有様だというのが気に食わん)
あれほど立派な人の血を引いていながら、どうしてああも覇気がないのか。
どうしてああも、何もかもを面倒くさそうに眺めていられるのか。
カティアが命を懸けて守ろうとしたもの。
彼女がその身で背負ってきた責任。
そうした重みを、あの娘は何ひとつ知らずに生きてきたように見えた。
それが、苛立たしかった。
腹立たしかった。
そして何より、失望に近い感情すら覚えていた。
(あの方の娘でなければ、気にも留めなかった)
そう思った瞬間、自分の中にある感情の強さを、ゼロスはあらためて自覚する。
ただの怠けた令嬢なら、無視すればいいだけだ。
だが、レイリア・エルヴァーンは違う。
あの人の娘だ――自分が敬い、憧れ、今なお恩義を忘れられない人の娘。
だからなおさら、許しがたかった。
(……なのに、何故だ)
ふと、昼間の光景がまた脳裏をよぎる。
レイリア・エルヴァーンの目。
眠たげで、気だるくて、世界のすべてに関心がないような目。
それなのに、ごくまれに――ほんの一瞬だけ、底の見えない深淵のような影が宿る。
ぞくり、と胸の奥に言いようのない違和感が走る。
(あれは……何だ)
怠惰なだけの娘なら、あんな目はしない。
何も知らぬ温室育ちの令嬢なら、あんな一瞬の冷たさは宿さない。
ゼロスは剣を鞘へ納め、低く息を吐いた。
「くだらん……俺が気にすることではない」
そう言い聞かせるようにつぶやき、訓練場へ戻る。
だが、心の片隅には小さな棘のような違和感が残り続けていた。
苛立つ。
目障りだ。
理解できない。
それなのに、どうしても意識から追い出せない。
(――レイリア・エルヴァーン)
その名が今後、自分の運命を大きく揺るがすことになるなど。
この時のゼロスは、まだ知る由もなかった。