祝福のあとで
扉が開く音がした。

ジャズに溶けるほど、静かな音。

でも、
ひかりは反射的に顔を上げた。

背の高い男が一人、
店内を見渡している。

コートを肩にかけたまま、
少しだけ疲れた顔。

仕事帰りだと、すぐに分かった。

「遅くなった」

低い声。

その声を聞いた瞬間、
由里の表情が変わる。

張っていたものが、
ふっとほどけるみたいに。

「お疲れさま」

立ち上がって、
自然に近づく。

その距離は、
迷いのないものだった。

直は、
一瞬だけ動きを止めてから、
静かに言った。

「……律」

落ち着いた目で、
まっすぐこちらを見る姿勢。

「久しぶりだな」

直に向かってそう言ってから、
由里の肩に軽く手を置く。

無意識の動作。

「仕事、長引いてさ」

「うん、聞いてた」

由里は笑う。

それは、
“待つことに慣れた人”の笑顔だった。

直は、
それ以上踏み込まず、
仕事の顔に戻る。

「飲み物、用意します」

男は、
小さく首を振った。

「今日はいい。
 顔だけ出せればと思って」

由里が、
少しだけ姿勢を正す。

「直、
 事務所、独立することにしたの」

直は、
驚いた様子は見せなかった。

ただ、
短く息を吐く。

「そうですか」

「二人で、やっていく」

その一言で、
関係性は十分だった。

空気が、
静かに変わる。

誰も大きな音は立てていないのに、
店の温度だけが、
ほんの少し動いた。

「……おめでとう」

直は、
余計な言葉を足さなかった。

祝福だけを、
正確に置く。

男は、
その様子を見て、
わずかに口角を上げる。

「ありがとう」

ひかりは、
グラスを持ったまま、
その光景を見ていた。

声をかける理由も、
席を立つ理由もない。

ただ、
“知らなかった過去”が、
確かにここにあると分かった。

——今日は、
直の家に行くと思っていた。

その前提が、
音もなく崩れたことに、
ひかりは、
ゆっくり気づき始めていた。
< 111 / 112 >

この作品をシェア

pagetop