MR(医薬情報担当者)だって恋します!

 『黒鍵』はちょうど就職活動と重なって、何回かしかレッスンが受けられず、合格をもらえずに終わった思い出深い曲だ。
『革命』とはまた違ってポロポロと音が軽快に転がっていく。高い音から低い音まで指が自在に動き、明るくクリアな音が耳に心地よい。
 私は思わず身を乗り出して沢野先生の指を見ていた。
 そのときだった。
 突然演奏が途切れ、私は手首を掴まれた。

「え?」

 声を上げたときには沢野先生の顔が近くにあって、私はマズイと思った。沢野先生の目に熱い炎が宿っていた。私は、

「イヤっ! 鈴木!」

 と無意識のうちに顔を背けて叫んでいた。
 その声が部屋に響いたとき、手首を掴んでいた沢野先生の手が離れた。
 私は震える足で沢野先生との距離を取る。
 沢野先生はゆっくり椅子を引いて立った。そして呆然としたように私を見つめた。

「……っ」

 沢野先生の喉から声にならない音が出る。おそるおそる見つめ続ける私の前で、沢野先生は両手で自分の顔を覆った。

「……ああ。僕は何てことを」
「せ、先生?」
「すみません。もう何もしないので、怖がらないで下さい。本当に、すみませんでした。お茶を入れます」

 沢野先生はそう言うとピアノの部屋を出て、リビングからキッチンの方へ歩いて行った。
 私は戸惑いながらもその後に続いた。
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