MR(医薬情報担当者)だって恋します!
裏切りではないのに
私は不安定なまま営業を続けていた。
唯一の支えは橘先生の部屋。もう一つ挙げるなら、鈴木とのゲームだろうか。
今野さんにはまだ悩んでいることを伝えられていなかった。
呼吸器内科が一番医局に居づらい。竹部先生とどうしてもうまくいかず、竹部先生がいないのを見計らって森田先生と話をするぐらいだ。塩屋先生にはたまに声をかける。
竹部先生を攻略しなければ。
焦るばかりでうまくいかない。
橘先生の部屋をノックする。
二日に一回ぐらいは行かないとなんだか心が折れそうになるから。
そして、こんな想いは抱いてはいけないと分かってるのに、橘先生と会話をする度に橘先生を好きになっていく。橘先生の部屋の家族写真が私を責める。でも、行かずにはいられない。
「どうぞ~」
橘先生の声に私はドアを開けた。その瞬間。
「!」
私はあまりに動揺してしまい、凍りついたように立ち尽くした。十秒あっただろうか。
私は、
「失礼しました」
と言って、部屋を出た。
橘先生の部屋には竹部先生がいて、一緒に煙草を吸っていた。
私は。
とにかく落ち着こうと階段を上る。
同じ呼吸器内科のドクターだ。話もするだろう。だが。なんだろう。このもやもやした気持ちは。
橘先生が私のした話を竹部先生にするはずはない。分かっているのに、なんだか不安になった。橘先生が竹部先生の味方についた気がして。味方も何も、同じ科のドクターなのだから、親しくて当たり前なのに。
それに、あんな状態のまま部屋を出ていいわけない。私はノックをしてまで橘先生の部屋に入った。なのにすぐに部屋を出た。これでは、竹部先生がいるから出た、というのが竹部先生にも分かり、不快にさせるだけだ。
ーーああ、また失敗した。
「鈴木さん?」
階段を上る私に声をかけてきたのは夏目さんだった。
「相変わらず余裕のない顔してるわね。大丈夫?」
「すみません……」
夏目さんはふぅと息を吐いた。
「前にも言ったけど、大学ではそんな顔してちゃダメよ?」
「そう、ですよね。すみません」
言って笑顔を作ったが引きつっているのが自分でも分かった。
「今日の夜、電話してもいい? 私、鈴木さんの電話番号知らないから教えて」
「え? は、はい」
私は名刺に携帯番号を書いて夏目さんに渡した。
「何時頃なら出られる?」
「9時半過ぎには出られます」
「分かった。じゃあ、電話するわね。また夜」
夏目さんはそれだけいうと階段を降りて行った。私はしばらくぼうっとして、夏目さんの用事は何だろうと考えた。
「鈴木さん。今日も営業、頑張ってるね。感心感心!」
谷口先生が下りてきた。
「お疲れ様です!」
慌てて頭を下げる。手を挙げて私とすれ違い、下りていく谷口先生を見て、私、本当に頑張れているのかなと一瞬考えた。
***
「最近疲れた顔してるけど大丈夫?」
夜、支店に戻ると香澄が居て話しかけてきた。
「そんなに顔に出ちゃってる?」
「うん。明日の準備か何かする? もし帰れるなら一緒帰らない?」
「帰れる! ちょっとだけ待ってて!」
私は急いで帰宅の準備をした。
「帰ろ」
私たちはドアの前の出退社記録機器にカードを翳して会社を出た。
地下鉄の駅まで二人で歩く。
「ねぇ、その後、あのドクターとはどうなってるの?」
香澄に聞かれて、私は咳き込んだ。
「どうって……。どうもなってないよ!」
「ならいいけど……」
私は話そうか迷って香澄の顔をじっと見つめた。
「何?」
「あの、あのね」
「うん?」
「あのドクターは橘先生って言うんだけど、前、診察してもらった先生なんだ」
「え? あの先生だったの?」
私は頷く。
「それで?」
「……ひかないでね? 私、橘先生の部屋をよく訪ねるんだけど、橘先生の顔を見ると、涙が出てしまって」
「ええ?!」
香澄の表情が変わった。
「ドクターの前で泣いてるの?」
「良くないってことは分かってるの! でも、営業のプレッシャーとかが、先生の前だとプツリと切れてしまって……」
香澄が今度は私を労わるように見た。
「そんなに追い詰められてるの? 理緒?」
「うん……。どうしてもうまくいかないドクターがいて。でも、そのドクターが喘息の患者さんを多く抱えてるの」
「今野さんがいるじゃない。任せれば?」
「うーん。今野さんもその先生には強くなくて。うちの大学、シルビルナ出るはずなのに、橘先生が少し出してるくらいであまり処方されてなくて、自主研究の患者さんも集まってないの」
「そうなんだ。でも、水くさいよ。悩んでるんだったらなんで相談してくれなかったの?」
香澄が少し寂しげな顔をして言った。
「香澄は営業順調そうだし、なんだか言い出せなくて……」
「私も色々悩みはあるよ? でもドクターの前で泣くほどじゃない」
「だめだよね。橘先生は営業相手で、私の味方ではないと分かってるの。でも、先生の温かさに触れるたびに心が解きほぐされてしまう。頑張って強がって営業してる仮面が剥がれてしまうの」
香澄は少し考える仕草をした。
「それは、泣き落としで処方をもらおうとか、その……先生の気を引こうとして泣いてるんじゃないんだよね?」
私は驚いて首を振った。
「違うよ! それまで我慢してた営業のきつさとかが涙になって流れてしまう感じ」
「うーん。そっか……」
駅について、カードを翳して改札口を通る。
プラットホームには会社帰りの男性、女性が多くいた。
「あまり橘先生の部屋、行かない方がいいんじゃない? 変な噂が立ったら良くないし、ましてや橘先生の部屋で泣いてることが他のドクターやMRにバレたら絶対ヤバイよ」
香澄は心配を湛えた瞳で私に言った。
「うん……。分かってるんだ、本当は。でも、橘先生には会いたくて、会いたくて。どうしてもやめられない」
香澄の目が変わる。
「ダメだよ。ドクターに本気になっちゃ。理緒の想いをいいことに不倫相手にされたり、セフレにされたりとかしちゃうよ? 相手は私たちより立場が強いんだから、訴えてももみ消されちゃうかもしれないんだよ?」
香澄が私のことを心配してくれているのは十分分かった。それでも恋は盲目になる。どうにかして会えないかな。話せないかなと思っている私がいる。
橘先生の部屋に行かなくなったらきっと私は狂ってしまう。
そう思って私は愕然とした。
私、こんなに橘先生のこと、好きなんだ?
地下鉄に二人で乗り込む。空いていた席に並んで座る。
「理緒? さっきの話聞いてた?」
「う、うん」
「……ほんと心配。妻子持ちなんでしょう? いいことないよ。諦めた方がいいと私は思う」
香澄はきっぱりと言った。
「……そうだよね。分かってるのに」
「あと、橘先生の部屋で泣いてるなんてこと、今野さんに言っちゃダメだよ? ね、周りにバレないうちに気持ち整理しちゃいな!」
「うん……」
私は曖昧に笑って頷いた。そんな私に香澄はため息をついた。
「理緒に傷ついて欲しくない」
「うん……ありがとう」
「じゃあ、私駅ここだから降りるね。悩みがあるなら、橘先生じゃなくて私に相談して」
「ありがとう、香澄」
香澄が手を振って地下鉄を降りていくのを見て、香澄がいてくれて良かったと思うとともに、私のしている片想いは何もいいことないんだなあと悲しくなった。なんでよりによって妻子持ちの営業相手のドクターなんだろう。
考えていると、駅を二つ乗り過ごした。
そういえば夏目さんからも電話がかかってくるんだっけ。
私は駅から出ると、急いで住んでるアパートまで走った。
シャワーを浴びて髪を乾かし、何か飲もうかとしている時にスマホが鳴った。
「はい、もしもし、鈴木です」
『こんばんは。夏目です。今大丈夫?』
「はい、大丈夫です」
『じゃあ、先に用件から言うわね。まだ先のことだけど、七月二十一日に消化器内科のドクターと研修医の勉強会、会食混みでしようと思うの。それで、ウチと千薬さんとアオハナさんでやろうかと考えていて。研修医もだから、若いメンバーでした方がいいと思ってるの。だから鈴木さんに出て欲しいのよ。今野さんに言って許可を取ってほしい』
私は突然の提案にすぐに言葉が出なかった。
「えっと、そこには今野さんは」
『抜きでお願いします。大丈夫。鈴木さんが危ない目に合うようなことはないようにするから』
私だけ……。
消化器内科はまだ数人のドクターしか話せてない。研修医に至っては説明会を何度かしたけれど、顔も把握していない。いい機会なのかも。
「今野さんに聞いてみます」
『うん。お願い』
「はい」
『それで? 相変わらず悩みは解決してないの?』
ガラリと夏目さんの声の調子が変わった。
「え?」
『悩んでるからあんな顔ばかりしてるんでしょ?』
私は何から何までを話せばいいか困ってしばらく黙った。
『私には話しづらいこと? それなら無理には訊かないけど』
私は覚悟を決めて話すことにした。
「夏目さんはMRをやっていて虚しくなる時はないですか? 私は自分がいても処方に繋がっていないのではとよく考えます。そればかりか処方してもらわなければいけないドクターに嫌われてしまって……」
夏目さんはすぐには返事をしなかった。
『そう、ね……。MRは営業職の中でもちょっと異質かもしれないわね。営業しても手応えが掴みにくいというか……。特に大学はどの科で何がどれくらい出てるかが分かるわけではないしね。だから私も悩んだことはある。自分が何をしているのかが分からなくなって』
「夏目さんも……」
私は不思議な安堵感を覚えた。
『でも、やるしかないのよ。この仕事を選んだ限り、やるしかない。疑問に思っても動くしかない。処方は自社からの研究費がその科にどれくらい入ってるかにも左右されるけど、MRが来ているかどうかにも左右されるはずだと思うしかない』
「以前、沢野先生に話したら、来ているから処方を出す気になる、みたいなことは言われました」
夏目さんは一瞬黙った。その後、夏目さんの笑う声が電話から聞こえてきた。
『ドクターとそんな話をしてるの? 鈴木さんは凄いわね』
「変ですよね、私」
夏目さんはまたくすりと笑った。
『まあ、それが鈴木さんらしさなのかもしれないわね。でも気をつけて。沢野先生は誠実な方だけど、弱みを見せるとつけ込むドクターもいるのよ。私たちは女。それを忘れないこと』
「そう、ですね。気をつけます。あの……」
私は訊こうか訊くまいか迷う。
『まだ何かあるの?』
「あの……夏目さんはドクターを好きになったことはありますか?」
言ってしまった。しばらく間があった。夏目さんは。
『……ないわ。鈴木さんがもしそうなら、諦めた方がいい。千薬さんの前のMRは確かにドクターと結婚したけど、そんな話はまれよ。遊ばれて捨てられるのがオチだわ。絶対に相手に気持ちを悟られたらだめ。傷つくのは鈴木さんよ』
切羽詰まった声で言われて、私はきゅっと胸が痛くなった。
「そう、ですよね。分かってはいるんです」
『気持ちはなかなか消せないものかもしれないけれど、自分を大切にして。私から言えるのはこれくらい』
「夏目さんはいい人ですね」
『どうかしらね。私も数少ない女の大学のMRだから、少し鈴木さんのことが気になっただけよ』
「ありがとうございました。今日は話せて良かったです」
『接待のこと、今野さんに忘れずに確認してね』
「分かりました」
『じゃあ。また、何かあったら相談に乗るから』
「ありがとうございます」
私は電話を切ってからしばらくぼんやりと座り込んだ。香澄も夏目さんもこの恋は諦めろと言う。私もそれが最善なのは分かってる。
どうやったら自分に宿った炎を消せるのだろう。
わからない。
私はベッドに倒れこむ。
わからない。
気がついたら朝だった。
イメチェンしてからメイクにやや時間がかかるようになったため、朝食を抜いてメイクする。
橘先生の部屋に行きづらくなってしまった。また竹部先生がいたら……。
それに。
橘先生には会いたいと思う。話してほしいとも思う。でも、私がドアを開けてすぐに閉めたときの橘先生の顔が思い出される。橘先生はやや失望したような顔をしていた。
営業に橘先生の部屋に行ったなら、私は逃げるべきではなかったのだ。チャンスだと思って竹部先生にも話しかけたら良かったのだ。それができなかった。
鏡を見てハッとする。メイクがいつもより濃くなっていた。慌てて塗りすぎたチークの上からファンデを塗る。唇をティッシュで押さえた。
時間がない。
私は急いでバッグを手にして、ローファーに足を入れ、ドアを開けた。
唯一の支えは橘先生の部屋。もう一つ挙げるなら、鈴木とのゲームだろうか。
今野さんにはまだ悩んでいることを伝えられていなかった。
呼吸器内科が一番医局に居づらい。竹部先生とどうしてもうまくいかず、竹部先生がいないのを見計らって森田先生と話をするぐらいだ。塩屋先生にはたまに声をかける。
竹部先生を攻略しなければ。
焦るばかりでうまくいかない。
橘先生の部屋をノックする。
二日に一回ぐらいは行かないとなんだか心が折れそうになるから。
そして、こんな想いは抱いてはいけないと分かってるのに、橘先生と会話をする度に橘先生を好きになっていく。橘先生の部屋の家族写真が私を責める。でも、行かずにはいられない。
「どうぞ~」
橘先生の声に私はドアを開けた。その瞬間。
「!」
私はあまりに動揺してしまい、凍りついたように立ち尽くした。十秒あっただろうか。
私は、
「失礼しました」
と言って、部屋を出た。
橘先生の部屋には竹部先生がいて、一緒に煙草を吸っていた。
私は。
とにかく落ち着こうと階段を上る。
同じ呼吸器内科のドクターだ。話もするだろう。だが。なんだろう。このもやもやした気持ちは。
橘先生が私のした話を竹部先生にするはずはない。分かっているのに、なんだか不安になった。橘先生が竹部先生の味方についた気がして。味方も何も、同じ科のドクターなのだから、親しくて当たり前なのに。
それに、あんな状態のまま部屋を出ていいわけない。私はノックをしてまで橘先生の部屋に入った。なのにすぐに部屋を出た。これでは、竹部先生がいるから出た、というのが竹部先生にも分かり、不快にさせるだけだ。
ーーああ、また失敗した。
「鈴木さん?」
階段を上る私に声をかけてきたのは夏目さんだった。
「相変わらず余裕のない顔してるわね。大丈夫?」
「すみません……」
夏目さんはふぅと息を吐いた。
「前にも言ったけど、大学ではそんな顔してちゃダメよ?」
「そう、ですよね。すみません」
言って笑顔を作ったが引きつっているのが自分でも分かった。
「今日の夜、電話してもいい? 私、鈴木さんの電話番号知らないから教えて」
「え? は、はい」
私は名刺に携帯番号を書いて夏目さんに渡した。
「何時頃なら出られる?」
「9時半過ぎには出られます」
「分かった。じゃあ、電話するわね。また夜」
夏目さんはそれだけいうと階段を降りて行った。私はしばらくぼうっとして、夏目さんの用事は何だろうと考えた。
「鈴木さん。今日も営業、頑張ってるね。感心感心!」
谷口先生が下りてきた。
「お疲れ様です!」
慌てて頭を下げる。手を挙げて私とすれ違い、下りていく谷口先生を見て、私、本当に頑張れているのかなと一瞬考えた。
***
「最近疲れた顔してるけど大丈夫?」
夜、支店に戻ると香澄が居て話しかけてきた。
「そんなに顔に出ちゃってる?」
「うん。明日の準備か何かする? もし帰れるなら一緒帰らない?」
「帰れる! ちょっとだけ待ってて!」
私は急いで帰宅の準備をした。
「帰ろ」
私たちはドアの前の出退社記録機器にカードを翳して会社を出た。
地下鉄の駅まで二人で歩く。
「ねぇ、その後、あのドクターとはどうなってるの?」
香澄に聞かれて、私は咳き込んだ。
「どうって……。どうもなってないよ!」
「ならいいけど……」
私は話そうか迷って香澄の顔をじっと見つめた。
「何?」
「あの、あのね」
「うん?」
「あのドクターは橘先生って言うんだけど、前、診察してもらった先生なんだ」
「え? あの先生だったの?」
私は頷く。
「それで?」
「……ひかないでね? 私、橘先生の部屋をよく訪ねるんだけど、橘先生の顔を見ると、涙が出てしまって」
「ええ?!」
香澄の表情が変わった。
「ドクターの前で泣いてるの?」
「良くないってことは分かってるの! でも、営業のプレッシャーとかが、先生の前だとプツリと切れてしまって……」
香澄が今度は私を労わるように見た。
「そんなに追い詰められてるの? 理緒?」
「うん……。どうしてもうまくいかないドクターがいて。でも、そのドクターが喘息の患者さんを多く抱えてるの」
「今野さんがいるじゃない。任せれば?」
「うーん。今野さんもその先生には強くなくて。うちの大学、シルビルナ出るはずなのに、橘先生が少し出してるくらいであまり処方されてなくて、自主研究の患者さんも集まってないの」
「そうなんだ。でも、水くさいよ。悩んでるんだったらなんで相談してくれなかったの?」
香澄が少し寂しげな顔をして言った。
「香澄は営業順調そうだし、なんだか言い出せなくて……」
「私も色々悩みはあるよ? でもドクターの前で泣くほどじゃない」
「だめだよね。橘先生は営業相手で、私の味方ではないと分かってるの。でも、先生の温かさに触れるたびに心が解きほぐされてしまう。頑張って強がって営業してる仮面が剥がれてしまうの」
香澄は少し考える仕草をした。
「それは、泣き落としで処方をもらおうとか、その……先生の気を引こうとして泣いてるんじゃないんだよね?」
私は驚いて首を振った。
「違うよ! それまで我慢してた営業のきつさとかが涙になって流れてしまう感じ」
「うーん。そっか……」
駅について、カードを翳して改札口を通る。
プラットホームには会社帰りの男性、女性が多くいた。
「あまり橘先生の部屋、行かない方がいいんじゃない? 変な噂が立ったら良くないし、ましてや橘先生の部屋で泣いてることが他のドクターやMRにバレたら絶対ヤバイよ」
香澄は心配を湛えた瞳で私に言った。
「うん……。分かってるんだ、本当は。でも、橘先生には会いたくて、会いたくて。どうしてもやめられない」
香澄の目が変わる。
「ダメだよ。ドクターに本気になっちゃ。理緒の想いをいいことに不倫相手にされたり、セフレにされたりとかしちゃうよ? 相手は私たちより立場が強いんだから、訴えてももみ消されちゃうかもしれないんだよ?」
香澄が私のことを心配してくれているのは十分分かった。それでも恋は盲目になる。どうにかして会えないかな。話せないかなと思っている私がいる。
橘先生の部屋に行かなくなったらきっと私は狂ってしまう。
そう思って私は愕然とした。
私、こんなに橘先生のこと、好きなんだ?
地下鉄に二人で乗り込む。空いていた席に並んで座る。
「理緒? さっきの話聞いてた?」
「う、うん」
「……ほんと心配。妻子持ちなんでしょう? いいことないよ。諦めた方がいいと私は思う」
香澄はきっぱりと言った。
「……そうだよね。分かってるのに」
「あと、橘先生の部屋で泣いてるなんてこと、今野さんに言っちゃダメだよ? ね、周りにバレないうちに気持ち整理しちゃいな!」
「うん……」
私は曖昧に笑って頷いた。そんな私に香澄はため息をついた。
「理緒に傷ついて欲しくない」
「うん……ありがとう」
「じゃあ、私駅ここだから降りるね。悩みがあるなら、橘先生じゃなくて私に相談して」
「ありがとう、香澄」
香澄が手を振って地下鉄を降りていくのを見て、香澄がいてくれて良かったと思うとともに、私のしている片想いは何もいいことないんだなあと悲しくなった。なんでよりによって妻子持ちの営業相手のドクターなんだろう。
考えていると、駅を二つ乗り過ごした。
そういえば夏目さんからも電話がかかってくるんだっけ。
私は駅から出ると、急いで住んでるアパートまで走った。
シャワーを浴びて髪を乾かし、何か飲もうかとしている時にスマホが鳴った。
「はい、もしもし、鈴木です」
『こんばんは。夏目です。今大丈夫?』
「はい、大丈夫です」
『じゃあ、先に用件から言うわね。まだ先のことだけど、七月二十一日に消化器内科のドクターと研修医の勉強会、会食混みでしようと思うの。それで、ウチと千薬さんとアオハナさんでやろうかと考えていて。研修医もだから、若いメンバーでした方がいいと思ってるの。だから鈴木さんに出て欲しいのよ。今野さんに言って許可を取ってほしい』
私は突然の提案にすぐに言葉が出なかった。
「えっと、そこには今野さんは」
『抜きでお願いします。大丈夫。鈴木さんが危ない目に合うようなことはないようにするから』
私だけ……。
消化器内科はまだ数人のドクターしか話せてない。研修医に至っては説明会を何度かしたけれど、顔も把握していない。いい機会なのかも。
「今野さんに聞いてみます」
『うん。お願い』
「はい」
『それで? 相変わらず悩みは解決してないの?』
ガラリと夏目さんの声の調子が変わった。
「え?」
『悩んでるからあんな顔ばかりしてるんでしょ?』
私は何から何までを話せばいいか困ってしばらく黙った。
『私には話しづらいこと? それなら無理には訊かないけど』
私は覚悟を決めて話すことにした。
「夏目さんはMRをやっていて虚しくなる時はないですか? 私は自分がいても処方に繋がっていないのではとよく考えます。そればかりか処方してもらわなければいけないドクターに嫌われてしまって……」
夏目さんはすぐには返事をしなかった。
『そう、ね……。MRは営業職の中でもちょっと異質かもしれないわね。営業しても手応えが掴みにくいというか……。特に大学はどの科で何がどれくらい出てるかが分かるわけではないしね。だから私も悩んだことはある。自分が何をしているのかが分からなくなって』
「夏目さんも……」
私は不思議な安堵感を覚えた。
『でも、やるしかないのよ。この仕事を選んだ限り、やるしかない。疑問に思っても動くしかない。処方は自社からの研究費がその科にどれくらい入ってるかにも左右されるけど、MRが来ているかどうかにも左右されるはずだと思うしかない』
「以前、沢野先生に話したら、来ているから処方を出す気になる、みたいなことは言われました」
夏目さんは一瞬黙った。その後、夏目さんの笑う声が電話から聞こえてきた。
『ドクターとそんな話をしてるの? 鈴木さんは凄いわね』
「変ですよね、私」
夏目さんはまたくすりと笑った。
『まあ、それが鈴木さんらしさなのかもしれないわね。でも気をつけて。沢野先生は誠実な方だけど、弱みを見せるとつけ込むドクターもいるのよ。私たちは女。それを忘れないこと』
「そう、ですね。気をつけます。あの……」
私は訊こうか訊くまいか迷う。
『まだ何かあるの?』
「あの……夏目さんはドクターを好きになったことはありますか?」
言ってしまった。しばらく間があった。夏目さんは。
『……ないわ。鈴木さんがもしそうなら、諦めた方がいい。千薬さんの前のMRは確かにドクターと結婚したけど、そんな話はまれよ。遊ばれて捨てられるのがオチだわ。絶対に相手に気持ちを悟られたらだめ。傷つくのは鈴木さんよ』
切羽詰まった声で言われて、私はきゅっと胸が痛くなった。
「そう、ですよね。分かってはいるんです」
『気持ちはなかなか消せないものかもしれないけれど、自分を大切にして。私から言えるのはこれくらい』
「夏目さんはいい人ですね」
『どうかしらね。私も数少ない女の大学のMRだから、少し鈴木さんのことが気になっただけよ』
「ありがとうございました。今日は話せて良かったです」
『接待のこと、今野さんに忘れずに確認してね』
「分かりました」
『じゃあ。また、何かあったら相談に乗るから』
「ありがとうございます」
私は電話を切ってからしばらくぼんやりと座り込んだ。香澄も夏目さんもこの恋は諦めろと言う。私もそれが最善なのは分かってる。
どうやったら自分に宿った炎を消せるのだろう。
わからない。
私はベッドに倒れこむ。
わからない。
気がついたら朝だった。
イメチェンしてからメイクにやや時間がかかるようになったため、朝食を抜いてメイクする。
橘先生の部屋に行きづらくなってしまった。また竹部先生がいたら……。
それに。
橘先生には会いたいと思う。話してほしいとも思う。でも、私がドアを開けてすぐに閉めたときの橘先生の顔が思い出される。橘先生はやや失望したような顔をしていた。
営業に橘先生の部屋に行ったなら、私は逃げるべきではなかったのだ。チャンスだと思って竹部先生にも話しかけたら良かったのだ。それができなかった。
鏡を見てハッとする。メイクがいつもより濃くなっていた。慌てて塗りすぎたチークの上からファンデを塗る。唇をティッシュで押さえた。
時間がない。
私は急いでバッグを手にして、ローファーに足を入れ、ドアを開けた。


