初恋は、終電の先に
「秋谷、奥で寝てもらっていい?」


 先輩がなぜか不安そうに言うから、私は小さく頷いて先にベッドに入った。先輩も続いて横になると、はにかんで私の髪を撫でた。

 三十歳の男性がこんなにかわいくていいんだろうかってくらい、かわいい。


「ねえ、秋谷。お願いがあるんだけど」


 砂糖とハチミツを煮詰めたみたいな甘ったるい声と眼差しが、全部私に向いていた。

 どろどろのそれに飲み込まれたら、きっと抜け出せないのに、私は自分から飛び込んでいた。


「なんでしょうか?」

「名前で呼んでいい? ……俺も秋谷に名前で呼ばれたいし」


 先輩は私の髪を梳いていた。時折、指先が耳元に触れてくすぐったくて、そのたびに触れたところが火傷したみたいに熱くなる。

 それだけじゃなくて、緊張で顔が熱くて仕方なかった。


「……いいです。な、尚也さん……すみません、まだ恥ずかしいので、えっと、尚也先輩」


 一瞬、先輩がはにかんだのが見えた。でも、ちゃんと見る前に背中を引き寄せられた。


「奈月。奈月、好きだよ」


 耳元で、低くて甘い声が囁かれた。

 背中がぞくぞくして、力が抜けてしまう。


「わ、先輩」

「ダメ、名前で呼んで」

「な、尚也先輩……っ」

「ん、よくできました。好きだよ、奈月。ずっとずっと好きだった」


 強く抱きしめられて、まったく動けなかった。

 なんとか腕を伸ばして、先輩の背中に手を回して抱き寄せた。


「はい、私も、ずっと好きでした。えへ……嬉しい」

「奈月」

「はあい」

「あー、ダメだ。好き。好きだ」


 先輩は私を折れそうなくらいぎゅうぎゅう抱きしめて、ずっと耳元でささやき続けていた。

 自重をお願いしたかったけど、その甘い声がかすかに震えていたから、やめさせることなんてできなかった。


「俺、本当に寂しかったんだ。高校を卒業したときも、昨日までも」

「そうだったんですね……そっかあ」

「だから、もう離さない」

「私も離れません。寂しかったから。好きです、尚也先輩」


 先輩の背中は広くて固くて、少し汗ばんでいた。顔を埋めた胸も薄くて固くて、男の人って感じでドキドキする。

 先輩も私を抱きしめたまま、まだ耳元で


「好き、奈月。もうどこにも行かないで」


 と、悲しそうにささやいていた。

 私が感じている以上に、この三週間は先輩にとってしんどかったんだろう。もちろん、十年前も。

「どこにも行きませんよ。私の居場所はここだけなので」

「……本当に?」


 先輩の手の力がふっと緩んだ。

 少しだけ体が離れて、顔を覗き込まれた。

 眼鏡をかけていない先輩の目は鋭いのに、どこか悲しそうに揺れていて、目が離せなかった。

「本当です。私、十年も先輩に片思いしてたんですよ。今さらどこに行くって言うんですか」

「それを言うなら、俺も十年片思いしてたんだけど」


 不貞腐れたような言い方がかわいくて、つい首を伸ばしてしまった。

 一瞬触れた唇は、予想よりずっと柔らかい。

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