八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜
終章 あなたのトリコになった件




朝倉祐二──鳳凰ホテル創業家、朝倉家の次男として生を受けた。

産まれた時には、すでに父は不慮の事故で亡くなっていた。
代わりに母が父の事業を継いでいた。

僕には、多忙な母親とゆっくり会話を交わした記憶がない。

それでも兄の貴浩や執事の黒川、家政婦の鈴川さんの愛情に囲まれ、寂しさを紛らわせながら生きてきた。

黒川や鈴川さんから、母は会社を経営する素晴らしい人だと教わっていた。僕はそんな母親のことを尊敬していた。

大きくなったら、少しでも母の手伝いができるように。
そう思って、勉学にも前向きに取り組んでいた。

いつも良質な物であふれていた僕の生活。
物には何ひとつ不自由しなかったから、欲のない性格だった。

食べることにも欲はなく、小さな頃から色白でひょろひょろの細い体形。

髪の毛はいつも眉上に揃えた坊ちゃんカット。

豪華な家に住み、何もかも満たされた人間。
周囲からは、そう映っていただろう。

だけど、僕が本当に欲しかったものは、どんなに手を伸ばしても届かなかった。

※

「龍善峡は景勝地ですが、ファミリー向けの複合施設の影響で、若い層が増えています。鳳凰ホテルもカジュアルダウンして、客を取り込むべきです」

「あのホテルは岡倉天蔵の古美術品の展示が売りなのよっ。客は高級な空間を求めてやってくるの。ファミリーに合わせたら鳳凰ブランドが台無しだわ!」

「しかし、客室稼働率が落ちています。周囲にできた安価なホテルに客が集まっているんです。リサーチを重ねた結果のご提案であることをご理解ください。社長、どうか方針の転換を」

「はぁ……なら、西館から作品を引き上げて東館に集めて。西館を大衆層に、露天付き個室のある東館は高級路線を残すわ」

「社長、ありがとうございます!」

今日も母親と部下の言い合いが聞こえてきた。

自宅のリビングで打ち合わせをするのは、いつものことだ。

だけど、激しい言い合いが始まると、関係のない僕まで緊張してしまう。

母が鳴らすヒールの音は、毎日違った。
僕はその音を聞くだけで、その日の母の機嫌がわかるようになっていた。

部下たちと意見がぶつかった日のヒールは、重く荒っぽい音になった。

僕はリビングのソファーに座って、本を読むふりをする。
母に話しかけてもいいタイミングなのか、機嫌を伺うためだった。

母の足音が聞こえてくる。
僕の心臓がドキドキしてくる。

母がリビングにやってきて、「コーヒー」といつも通りに鈴川さんに頼む。
そして大きな溜息とともにソファーに腰を下ろす。

ガチャン──

耳から外したイヤリングが、ガラスのテーブルに雑に置かれる音がした。

今日ね、学校で朝顔の種を植えたんだよ!

それを伝えたくて待っていたのに、僕は母に声を掛けられない。
なぜか、読んでいない本から視線を外すことができない。

僕はいつも、母親の前で緊張していた気がする。

「祐二。学校はどう?」

母親から僕に話しかけてくれるのが嬉しくて、僕は満面の笑顔で顔を上げた。

子供の僕でもドキリとするほど、母は美しかった。

自慢の母。
仕事もできて、美しい母。もっと近づいて、いろんな話を聞いてもらいたい。

なのに、僕はこう答えてしまう。

「今日は体育で縄跳びをしました。とても楽しかったです」

「そう」

母がにこやかに笑ってくれる返事の仕方を、僕は身に付けてしまっていた。

自分の話をするより、母の笑顔を見たかったから。

「母上! おかえりなさい。今日、試験の結果が出ました」

兄は無邪気に試験用紙を母に差し出し、ソファーの横に座った。
そして母の顔を下から覗き込み、おねだりする。

「いい点数が取れました。母上、褒めて!」

「よく頑張ったわね」

母は優しく笑って、兄の頭を撫でた。

僕は横目でそれを見ていた。

兄が羨ましかった。

いつかは僕だって、頭を撫でてもらいたい。
そのためには、たくさん勉強を頑張らないといけない。

そうしたら、母は僕に振り向いてくれる。

僕はそう信じていた。


※

乾燥した寒風が吹きつける、冬のある日。
僕は高熱が出て、学校を休んで自室のベッドで寝込んでいた。

「坊ちゃま。お薬も飲みましたから、これで熱も下がって楽になりますよ」

家政婦の鈴川さんが、氷枕を交換してくれた。

鈴川さんは、忙しい母に代わって、いつも僕のそばで世話をしてくれた。

確か六十を過ぎていたと思う。
だから僕にとっては、おばあちゃんみたいな存在だった。

いつもは、鈴川さんでよかった。

だけど、僕は体調が悪くなると、なぜか母に甘えたくて仕方がなかった。

寂しい……。
母に抱っこしてもらいたい。

病気で弱気になると、普段は近づけない母に抱きつきたい気持ちが抑えられなくなる。

今日もやはり、母が恋しくなっていた。

「祐二の熱は下がったの?」

母が出勤前に僕の部屋に来てくれた。
だけど、戸を開けて鈴川さんに確認するだけだった。

「今、薬を飲みましたので、そのうち下がると思います」

鈴川さんがそう説明すると、母は一言「大丈夫そうね」とだけ呟いて、部屋の戸を閉めようとした。

「母上っ、待って!」

ぼんやりする頭で、僕は母に向かって叫んだ。

再び戸が開かれ、母の顔が見えた。

「抱っこして!」

僕は思い切って、母親に本音を伝えた。
そしてベッドから半身を起こし、母に向かって両手を差し出したんだ。

母は目を見開いていた。

僕は母の子供だもの。
病気の時は、抱きしめてくれるよね?

僕は必死に腕を伸ばした。

しかし、母が視線を逸らした。

「風邪がうつったら……私は仕事を休めないのよ」

そして、またいつもの厳しい母の目になる。

「薬を飲んだなら、そのうちよくなるわ。ゆっくり過ごしていなさい」

(──……断られた)

母に届くようにと伸ばした手が、ぽとりと落ちる。

僕は涙が溢れた。
鼻がツーンと痛くなると同時に、目から涙が零れ落ちてゆく。

僕を気の毒に思った鈴川さんが、僕を抱きしめてくれた。

「坊ちゃま……美麗さまはお忙しいので、体調がよくなったらにしましょうね」

僕の頭を優しく撫でてくれた。
鈴川さんの気持ちは嬉しい。

だけど、僕は母のぬくもりが欲しかったんだ。

しゃくりあげながら母を見上げると、母は眉を寄せて不快そうな顔をしていた。
そして、無言で戸を閉めようとした。

(いやだ、待って!)

「母上、行かないでっ! そばにいて!」

再び伸ばした手も虚しく、戸は完全に閉められた。





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