お試し婚のはずが、いつの間にか溺愛されています!~二度も婚約破棄された外科医は受付事務員に愛を捧ぐ~
 視線の置き場が分からず、私は前を向いたまま、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
 ほんの少しの距離が、今はやけに遠く、そして近く感じられた。
「このあと、用事はないんだよな?」
「はい」
「食事でもしながら、ゆっくり話さないか」
「……はい」
 返事をした直後、しまった、と思った。
 今になって考えれば、要件だけをささっと聞いて食事は断ることだってできたはずなのに、言葉は反射的に口をついて出てしまっていた。

 普段、城高山先生と交わす会話は業務連絡ばかりだ。落ち着いて話した記憶など、ほとんどない。
 その相手と二人きりで食事だなんて、緊張しないはずがなかった。

 城高山先生に言われるがまま車に乗り込んでしまったけれど、もしかしたらそれが災いの元だったのかもしれない。
 職場でも、患者の間でも、彼を慕う人は多い。誰に対しても誠実で、頼りがいがあって――当然だ、と私自身も思う。
 用事がないことを知っていた城高山先生は、少し考える素振りを見せたあと、ごく自然な流れで彼女を食事に誘った。
 あまりにもさりげない誘い方だったため、私は断る理由を見つけられず、ただ視線を上げる。

「何が食べたい?」

 突然向けられた問いに、私は一瞬言葉に詰まった。
 食欲がないわけではない。ただ、こうして二人きりで過ごす時間に慣れていなくて、頭がうまく働かない。

「えっと……」

 何が食べたいと聞かれても、緊張のせいで考えがまとまらず、はっきり答えることができない。
 視線を落とし、指先をぎゅっと握る。
 そんな様子を見て、城高山先生は急かすこともなく、穏やかな声で提案した。

「洋食屋はどう? この近くに美味い店があるんだ」
 選択肢を与えられ、少しだけ肩の力が抜ける。
 彼のおすすめなら、間違いないだろうと思えた。
「はい、じゃあ、そのおすすめのお店でお願いします」
 私はそう答えながら、自分が彼の流れに身を任せていることを自覚する。
 けれど、不思議と嫌な気持ちはなかった。
 城高山先生は軽く頷く。
 私は、胸の奥がわずかに高鳴るのを感じていた。
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