御曹司の契約妻が本物の妻として愛されるまで
 ふんと鼻を鳴らし、化粧室を出ていく彼女を追いかけたいのに足が動かない。
 打たれた頬がじんと熱を持つ。おまけに床に落ちた衝撃でダイヤが外れてしまったのか、半端に壊れた金具で引っ掻いた頬には横一文字の線が浮かび上がっていた。
 セットした髪もほつれているし、化粧もよれてしまっている。
 これでは、彼のもとへ帰れない。

「……っ」

 鏡の中にいる惨めな自分の姿を見て、涙が出そうになる。
 喉の奥がひくっ、と震えて、ぽつりと涙が手の甲を濡らした。

「……ふふ、やあね。奥様ったら!」
「ちょっと、そんなに笑わないでくださいな」

 入り口のほうから婦人たちの声が聞こえてきて、慌てて涙を指で拭う。
 とにかくもっと人が少ないところへ行こうと化粧室を出た。
 だけど、

「千尋!」
「……蓮、さん……」

 廊下には肩で息をする蓮さんが立っている。
 逃げようと思ったけれど、すぐに彼に手を掴まれ、すっぽりと彼の腕の中に収まってしまった。

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