御曹司の契約妻が本物の妻として愛されるまで
 考えるべきことは多いのに、やけに頭は冷静だった。

 雑居ビルの階段を下り、駅へと続く繁華街を通り抜ける。

 この街は相変わらず誘惑が多くて、私はぴたりと足を止めた。

 どこからか漂う美味しそうな匂いも、すれ違う女性たちの綺麗なコートですらも、私には縁遠い。
 これらは普通に働いていればそんなに背伸びをせずとも手に入るものだ。普通の女性ならば。

 そう思うと、じわじわと涙が溢れてくる。

 ――ダメだ、こんなところで泣くなんて。

 涙を堪えるようにぎゅうっと下唇を噛み締めていると、ドンッと勢いよく道路に面した扉が開いた。

「あっ」
「〜〜っ!」

 パンプスの角に鉄製の扉がぶつかって、痛みのあまり悶絶する。
 扉を開けたらしい男性は、私を見るなり慌てふためいた。

「すみません……! 外に人がいるとは思わず……。いま、ぶつかりましたよね……? 大丈夫でしたか?」

 俯いた顔を覗き込むように、男性が腰を折る。

 整髪剤の匂いだろうか、はたまた身に付けているコロンの香りだろうか。
 ふわりといい匂いがしたのと同時に、整った顔が眼前まで迫っていることに気付いて、びくりと肩を揺らした。

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