療養先から戻ったら、婚約者が異母妹とキスをしていた
「ローレッタ様、お久しぶりです」
受付で待っていると、姿を見せたのはヨアンの助手、ヘンリーだった。柔らかなミルクティー色の髪に、人懐っこい笑顔が印象的な彼とは、この研究所に来てからずっと顔見知りだ。温かみのある茶色の目が、ローレッタを見て驚いていた。
ローレッタはにこやかに挨拶を返す。
「こんにちは。忙しいところ、呼び出してしまってごめんなさい」
「大丈夫です。僕もちょうど休憩しようとしていたところですから」
軽い挨拶を交わし、ヘンリーとともにヨアンの執務室へ向かう。研究所の奥まった場所にあるその部屋は、下位貴族の邸宅ほどの広さを誇っていた。室内は無駄のない整然とした雰囲気で、壁には未完成の魔法陣や古びた書物がずらりと並んでいる。
建物に入ると、顔見知りたちが驚いた様子でローレッタを見つめた。わずか一カ月足らずで戻ってきたのだから、当然の反応だろうと苦笑しつつ、挨拶を交わしながら進む。
ヘンリーはヨアンの研究室の扉を軽くノックし、返事を待たずに大きく開けた。
「ヨアン様、お客様です!」
ヘンリーはローレッタのことを告げずに部屋へ入り込んだ。ローレッタは部屋の中を覗き込む。
普段なら無作法とも思えるその振る舞いも、ヨアンが研究に没頭している時にはこれが一番だ。
しかし、その日は違った。ヨアンは机に向かっておらず、眉間にしわを寄せて書類を手に立っている。
「客だと? 予定はなかったはずだが」
顔を上げたヨアンのブルーグレイの瞳が、鋭く光った。淡い金髪が乱れたまま肩にかかり、乱れた隙間から端整な顔立ちが覗く。疲れた様子さえ、張り詰めた空気の中で知性と魅力を放っていた。
「約束はないけど、お連れしました」
ヘンリーに促されてローレッタが部屋に入ると、ヨアンの視線が顔に留まる。その厳しい眼差しに、ローレッタは平静を装って微笑んだが、ヨアンの表情は微動だにしなかった。
「ごきげんよう、ヨアン様」
「ローレッタ嬢、まさか君が戻ってくるとはな。体調は本当に大丈夫か?」
ヨアンは目を細め、遠慮なくローレッタを観察する。その視線は単なる医師の心配を超え、どこか強い感情を含んでいるように見えた。
ローレッタは気の抜けたような笑みを浮かべた。
「婚約破棄になって、戻ってきました」
「は? 婚約破棄だと? 冗談はやめてくれ」
明るく事実を伝えたが、ヨアンの表情は真剣そのものだった。書類を机に置くと彼はローレッタに近付き、ジッと顔を覗き込む。
(うわ、顔が近い!)
ヨアンの真剣な眼差しに、心の内まで見透かされそうでドキドキする。気持ちをごまかすように、経緯を話した。
「婚約者が異母妹に手を出してて……私が死にかけていると思ったから、次の後継者に乗り換えたのよ」
説明を聞いたヨアンの目には怒りが宿った。それがジャスタスに向けられているのを感じ、ローレッタは不思議に思った。ヨアンは頼れる人だが、こんなに感情を露わにするのは珍しい。
「……クズだな」
「本当に。けど、結婚前にわかってよかったわ」
なにげなく告げるが、ヨアンは騙されなかった。
「君の価値を知らぬ男など、忘れていい。今は無理せず、頼れ」
思わぬ優しい言葉に涙が込み上げ、視界が滲む。
「嫌だ、泣きたくないのに」
慌てて目じりを押さえると、ヨアンが胸にローレッタを引き寄せた。驚いて涙が止まる。
「ヨ、ヨアン様!」
「これからは、俺を頼ってくれていい」
その言葉の意味が医師としてなのか、それともすべてにおいてなのか、ローレッタにはわからなかった。
「もう! 驚きすぎて涙が止まったわ」
強がってみるが、声は震えていた。ヨアンの温もりを感じて体の強張りがほどけると、涙は自然とあふれた。ジャスタスへの思いはもうない。それでも、信頼を裏切られたことは、心に深い傷を残していた。
涙が止まった頃、ヨアンはほんの少しだけローレッタを離す。
「で、無理してここに来た理由は? 熱があるなら屋敷で休むべきだろう」
先ほどの優しさは嘘だったかのように、いつもの冷静な態度に戻っていた。これほど男性に優しくされたのが初めてのローレッタは、普段通りのヨアンにホッと息をつく。
「……無理して往復したせいか、薬もあまり効かなくて」
症状を伝えていないはずなのに、顔色を見ただけでわかるものだろうかと、思わず驚いた。
観察を終えたヨアンは、ローレッタに座るよう促す。ローレッタが腰を下ろすと、ヨアンは向かいに座り、長椅子にもたれながら足を組んだ。ヘンリーはすかさずお茶を用意する。
「どうぞ」
「ありがとう」
ローレッタはお茶をゆっくりと飲む。温かなお茶が張り詰めた神経を落ち着かせる。
「無理をすれば再発すると言ったはずだが」
「わかっていたけど……だから、半年早いけど治療を再開してほしくて」
「魔力の調整はできるが、今すぐの治療は無理だ」
ヨアンはきっぱりと断った。
ローレッタは、治療が少しずつ段階を踏まなければ体に負担がかかることを思い出した。焦って治療を始めることはできない――わかってはいるけれど、やっぱり早く治してほしかった。
迷いのない言葉に、ローレッタは頬を膨らませる。
「少しくらい悩んでもいいのに」
「仕方ないだろう。君の治療は半年後の予定だ。今は別の仕事が入っている」
「なんとかならないの?」
食い下がるローレッタに、ヨアンは顎に手を当てて考え込む。そんな様子を見て、ヘンリーが助け舟を出した。
「せっかく早く戻ってこられたんですし、なにか、できることがあるんじゃないですか?」
ローレッタとヘンリーに懇願され、ヨアンは呆れた目でふたりを見つめる。
「今の仕事は散々先延ばしにしてきた。もうこれ以上は無理だ」
「もしかして、私の治療を優先して他の仕事を後回しにしてたから……?」
ヨアンが他の仕事を後回しにしていた理由が自分だと気付き、ローレッタは驚きを隠せなかった。
(本当に?)
以前ここに駆け込んだ時、魔力は極限まで落ちていて死にかけていた。あの時は緊急だったため、ヨアンの予定に割り込めたのだ。
今回、自分のわがままでヨアンの仕事を止めるのはためらわれる。
「先送りできない仕事って、どんな内容?」
「知ってどうする」
ヨアンがローレッタには関係ないことだと冷たく突き放した。そしてなによりも、これ以上、先延ばししたくないという気持ちが見え隠れする。
「半年後の治療は、魔力の底上げでしょ? 薬で疑似魔力を取り込み、魔法を使って定着させる」
「――間違っていない」
前回、ここを訪れた時に今後の方針について聞いたことを慎重に確認する。
「それなら、魔法を使う仕事を手伝えないかと思って。そうすれば、私も魔法を使うことで治療になるし、ヨアン様の仕事も進む。いいことずくめだわ!」
誰もが大なり小なり魔力を持ち、爵位が高いほど強い――建国当初、魔力豊かな者たちが国を築いた名残だ。特にこの国では魔力の強さが日常や国の運営に直結している。
だから、魔法を使うことは単に手伝いになるだけでなく、枯渇気味の魔力を定着させ、魔力症の治療にもなる。ローレッタはそう考えていた。
「無理だ」
ローレッタの提案にヨアンは即座に否定した。
「ええ……」
「俺の仕事はそんな簡単じゃない」
(そうかもしれないけど、そんなにきっぱり言わなくても。いい案だと思ったのに)
自信がしぼんでいくのを感じる。
「そうでもないんじゃないですか?」
黙って聞いていたヘンリーが口を挟んだ。ふたりはヘンリーに目を向ける。
「ヘンリー、余計なことを言うな」
ヨアンが釘を刺すが、ヘンリーは飄々と自分の意見を述べる。
「確かに魔法陣の修復はヨアン様しかできないかもしれませんが、調査に時間がかかっている。だから放置されていたわけでしょう?」
(魔法陣の修復? そんな高度なことを……でも、調査なら私にもできるんじゃないかしら)
ローレッタは身を乗り出し、ふたりのやり取りに耳を傾けた。
「それでも患者に手伝わせるつもりはない」
「いいじゃないですか。ローレッタ様は早く治療を再開したいし、そのためにはヨアン様の仕事を減らす必要があります。一番時間のかかる調査を任せれば、空いた時間で治療もできるでしょう」
調査ならできそうだと自信を取り戻し、満面の笑みを浮かべる。
「手伝うわ! 調べ物は得意なの!」
アークライト公爵家の次期当主としての経験が自信となっていた。そう言うと、ヨアンは苦々しい表情を浮かべる。
「なんでそうなる……」
「ヨアン様が抱えている仕事の中で一番厄介なのは魔法陣の修復です。上位魔法陣を担当しているので、とにかく手間がかかるんですよ」
ヘンリーはぺらぺらと説明を始め、ヨアンは何度も口を挟もうとしたが阻まれた。
(ヘンリーは私にこの仕事をさせたいんだわ。単に治療時間を作るためじゃない)
仕事内容を聞けば、魔法を学んだことのないローレッタには難しいことがすぐわかる。ちらりとヨアンを見ると、腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔だった。
「でも、魔法陣の修復、知識が必要でしょう? 私にできるかしら?」
無理なことは無理と素直に伝える。
「ところが! 分業すれば問題ないんですよ!」
「ヘンリー、ちょっと待て」
分業という言葉にヨアンが慌てて口を挟む。
「分業?」
「確かに魔法陣の修復は難しい。でも、一番の問題は欠けた魔法陣の文字を探すこと。まるでパズルのように、失われた言葉を見つける作業です」
魔法陣を作り動かすのは魔法の知識が必要だが、消えかけた文字を探すだけなら最低限で済む。
「つまり、消えた文字を探すのに時間がかかるのね」
「その通り! この調査には時間も体力もすごく使うんです!」
「――それはヘンリー、お前の仕事だろ」
ヨアンがそう指摘すると、ヘンリーは鋭く睨み返した。
「ヨアン様がいつまでも放置しているから、僕に回ってきているんです! 僕だって、他の仕事を抱えているんですからね!」
「それは……すまない」
「それにですよ、ローレッタ様のご厚意、無駄にするのはどうかと!」
ヨアンがため息を漏らした。ローレッタはそんなふたりのやり取りを見て、心を決めた。
「それに、ローレッタ様が魔法を学べば、できることがもっと増えます!」
だがヨアンは学者らしい冷静な視点で反論した。
「ローレッタ嬢は魔力が欠乏しているんだ。そもそも魔力が足りない。まずは治療が先だ」
ヨアンはよほどローレッタに手伝ってほしくないのだろう。ヘンリーが言葉を尽くしても、きっとヨアンは頷かない。
そう諦めかけていた時、ヨアンがローレッタの方を見た。
「……だが、確かに人手が足りていないのも事実だ。一度試してみて、無理ならその時に言ってくれ」
「いいの?」
「いいも悪いもない。お前たちは、なにがなんでも捻じ込もうとするじゃないか」
ローレッタの真意を見抜かれ、苦笑がこぼれる。
「ただし、準備が必要だ。そうだな……三日後の午後、ここへ来てほしい。ヘンリー、ローレッタ嬢の席を用意してくれ。それから必要な文具も」
ヨアンはあれこれとヘンリーに指示を出す。その様子を見て、ローレッタは本当に手伝わせてくれるのだと実感した。
「ヨアン様、ありがとう!」
無事に治療再開の許可を勝ち取ったローレッタは、心からの笑みを浮かべた。
小さな一歩でも、自分の意志で踏み出せたことが、なにより嬉しかった。
◇
ローレッタがご機嫌でヨアンの研究室を出た後、ヘンリーは茶器を片付けながらヨアンに話しかけた。
「よかったですね、婚約破棄して」
「よくない。あのクズのせいで、彼女は泣いたんだぞ」
ヨアンは不機嫌さを隠さずに答えたが、ヘンリーは気にすることなくニマニマと笑った。
「情事の最中に踏み込んだのは確かにかわいそうでしたけど、そのおかげで今までの情まで全部吹き飛ばせたんじゃないですか?」
「……だからといって、すぐに他の男に目を向けるとは思えない」
「えー。それなのに、俺を頼ってくれていいなんて言っていたんですか? だいぶ戸惑っていましたよ?」
ヘンリーの指摘に、ヨアンは唇を曲げる。
「仕方がない。そう思っている」
「ヨアン様がローレッタ様に惹かれたのは、随分前のことですからねぇ。あ、暴走だけはやめてくださいよね」
すっかり自分の気持ちを見透かされているのを知って、ヨアンは否定しなかった。代わりに自信満々に言い放つ。
「惹かれないなんて、無理だ。彼女が自分で立とうとする姿を見ると、どうしても守りたくなる」
ヨアンがローレッタと出会ったのは一年前。彼女は死にかけた状態でここに来た。
命が尽きかけていたのに、決して心は折れず、辛い治療にもひと言も弱音を吐かなかった。それが、婚約者の男のためという理由なのは納得できないが、彼女の輝きを否定する理由にはならなかった。
「馬鹿な男だ。彼女を手放すなんて」
「それは同感です。ヨアン様は一度手に入れたら絶対に離しませんから」
「当然だ」
これからじっくり時間をかけて、彼女の気持ちを自分に向けさせようと、ヨアンは目を細める。ゆっくりと、まるで囲っていると感じさせないほど優しく。
「うあー、なんだかローレッタ様が気の毒になってきました」
「どういう意味だ」
「だって、ヨアン様、囲う気、満々でしょう?」
言い当てられてヨアンは笑った。
「自由にさせる意味がわからないな」
「あんまり囲いすぎると、逃げられますよ」
「心配いらない。俺の見える範囲なら、どれだけでも自由にさせるつもりだ」
その言葉を聞いたヘンリーは天井を仰いだ。
「大した執着心ですね。今まで冷たく断られてきた令嬢が聞いたら、目をむくでしょうね」
「すり寄ってくるタイプが苦手なだけだ」
「そうですけどね、まあいいです。ほどほどにしてくださいね。ローレッタ様はまだ心の傷が癒えていないんですから」
ヘンリーの忠告に、ヨアンは肩を竦めて答えた。だがその瞳は、ローレッタの姿を追いかけるように、扉の向こうを見つめていた。
受付で待っていると、姿を見せたのはヨアンの助手、ヘンリーだった。柔らかなミルクティー色の髪に、人懐っこい笑顔が印象的な彼とは、この研究所に来てからずっと顔見知りだ。温かみのある茶色の目が、ローレッタを見て驚いていた。
ローレッタはにこやかに挨拶を返す。
「こんにちは。忙しいところ、呼び出してしまってごめんなさい」
「大丈夫です。僕もちょうど休憩しようとしていたところですから」
軽い挨拶を交わし、ヘンリーとともにヨアンの執務室へ向かう。研究所の奥まった場所にあるその部屋は、下位貴族の邸宅ほどの広さを誇っていた。室内は無駄のない整然とした雰囲気で、壁には未完成の魔法陣や古びた書物がずらりと並んでいる。
建物に入ると、顔見知りたちが驚いた様子でローレッタを見つめた。わずか一カ月足らずで戻ってきたのだから、当然の反応だろうと苦笑しつつ、挨拶を交わしながら進む。
ヘンリーはヨアンの研究室の扉を軽くノックし、返事を待たずに大きく開けた。
「ヨアン様、お客様です!」
ヘンリーはローレッタのことを告げずに部屋へ入り込んだ。ローレッタは部屋の中を覗き込む。
普段なら無作法とも思えるその振る舞いも、ヨアンが研究に没頭している時にはこれが一番だ。
しかし、その日は違った。ヨアンは机に向かっておらず、眉間にしわを寄せて書類を手に立っている。
「客だと? 予定はなかったはずだが」
顔を上げたヨアンのブルーグレイの瞳が、鋭く光った。淡い金髪が乱れたまま肩にかかり、乱れた隙間から端整な顔立ちが覗く。疲れた様子さえ、張り詰めた空気の中で知性と魅力を放っていた。
「約束はないけど、お連れしました」
ヘンリーに促されてローレッタが部屋に入ると、ヨアンの視線が顔に留まる。その厳しい眼差しに、ローレッタは平静を装って微笑んだが、ヨアンの表情は微動だにしなかった。
「ごきげんよう、ヨアン様」
「ローレッタ嬢、まさか君が戻ってくるとはな。体調は本当に大丈夫か?」
ヨアンは目を細め、遠慮なくローレッタを観察する。その視線は単なる医師の心配を超え、どこか強い感情を含んでいるように見えた。
ローレッタは気の抜けたような笑みを浮かべた。
「婚約破棄になって、戻ってきました」
「は? 婚約破棄だと? 冗談はやめてくれ」
明るく事実を伝えたが、ヨアンの表情は真剣そのものだった。書類を机に置くと彼はローレッタに近付き、ジッと顔を覗き込む。
(うわ、顔が近い!)
ヨアンの真剣な眼差しに、心の内まで見透かされそうでドキドキする。気持ちをごまかすように、経緯を話した。
「婚約者が異母妹に手を出してて……私が死にかけていると思ったから、次の後継者に乗り換えたのよ」
説明を聞いたヨアンの目には怒りが宿った。それがジャスタスに向けられているのを感じ、ローレッタは不思議に思った。ヨアンは頼れる人だが、こんなに感情を露わにするのは珍しい。
「……クズだな」
「本当に。けど、結婚前にわかってよかったわ」
なにげなく告げるが、ヨアンは騙されなかった。
「君の価値を知らぬ男など、忘れていい。今は無理せず、頼れ」
思わぬ優しい言葉に涙が込み上げ、視界が滲む。
「嫌だ、泣きたくないのに」
慌てて目じりを押さえると、ヨアンが胸にローレッタを引き寄せた。驚いて涙が止まる。
「ヨ、ヨアン様!」
「これからは、俺を頼ってくれていい」
その言葉の意味が医師としてなのか、それともすべてにおいてなのか、ローレッタにはわからなかった。
「もう! 驚きすぎて涙が止まったわ」
強がってみるが、声は震えていた。ヨアンの温もりを感じて体の強張りがほどけると、涙は自然とあふれた。ジャスタスへの思いはもうない。それでも、信頼を裏切られたことは、心に深い傷を残していた。
涙が止まった頃、ヨアンはほんの少しだけローレッタを離す。
「で、無理してここに来た理由は? 熱があるなら屋敷で休むべきだろう」
先ほどの優しさは嘘だったかのように、いつもの冷静な態度に戻っていた。これほど男性に優しくされたのが初めてのローレッタは、普段通りのヨアンにホッと息をつく。
「……無理して往復したせいか、薬もあまり効かなくて」
症状を伝えていないはずなのに、顔色を見ただけでわかるものだろうかと、思わず驚いた。
観察を終えたヨアンは、ローレッタに座るよう促す。ローレッタが腰を下ろすと、ヨアンは向かいに座り、長椅子にもたれながら足を組んだ。ヘンリーはすかさずお茶を用意する。
「どうぞ」
「ありがとう」
ローレッタはお茶をゆっくりと飲む。温かなお茶が張り詰めた神経を落ち着かせる。
「無理をすれば再発すると言ったはずだが」
「わかっていたけど……だから、半年早いけど治療を再開してほしくて」
「魔力の調整はできるが、今すぐの治療は無理だ」
ヨアンはきっぱりと断った。
ローレッタは、治療が少しずつ段階を踏まなければ体に負担がかかることを思い出した。焦って治療を始めることはできない――わかってはいるけれど、やっぱり早く治してほしかった。
迷いのない言葉に、ローレッタは頬を膨らませる。
「少しくらい悩んでもいいのに」
「仕方ないだろう。君の治療は半年後の予定だ。今は別の仕事が入っている」
「なんとかならないの?」
食い下がるローレッタに、ヨアンは顎に手を当てて考え込む。そんな様子を見て、ヘンリーが助け舟を出した。
「せっかく早く戻ってこられたんですし、なにか、できることがあるんじゃないですか?」
ローレッタとヘンリーに懇願され、ヨアンは呆れた目でふたりを見つめる。
「今の仕事は散々先延ばしにしてきた。もうこれ以上は無理だ」
「もしかして、私の治療を優先して他の仕事を後回しにしてたから……?」
ヨアンが他の仕事を後回しにしていた理由が自分だと気付き、ローレッタは驚きを隠せなかった。
(本当に?)
以前ここに駆け込んだ時、魔力は極限まで落ちていて死にかけていた。あの時は緊急だったため、ヨアンの予定に割り込めたのだ。
今回、自分のわがままでヨアンの仕事を止めるのはためらわれる。
「先送りできない仕事って、どんな内容?」
「知ってどうする」
ヨアンがローレッタには関係ないことだと冷たく突き放した。そしてなによりも、これ以上、先延ばししたくないという気持ちが見え隠れする。
「半年後の治療は、魔力の底上げでしょ? 薬で疑似魔力を取り込み、魔法を使って定着させる」
「――間違っていない」
前回、ここを訪れた時に今後の方針について聞いたことを慎重に確認する。
「それなら、魔法を使う仕事を手伝えないかと思って。そうすれば、私も魔法を使うことで治療になるし、ヨアン様の仕事も進む。いいことずくめだわ!」
誰もが大なり小なり魔力を持ち、爵位が高いほど強い――建国当初、魔力豊かな者たちが国を築いた名残だ。特にこの国では魔力の強さが日常や国の運営に直結している。
だから、魔法を使うことは単に手伝いになるだけでなく、枯渇気味の魔力を定着させ、魔力症の治療にもなる。ローレッタはそう考えていた。
「無理だ」
ローレッタの提案にヨアンは即座に否定した。
「ええ……」
「俺の仕事はそんな簡単じゃない」
(そうかもしれないけど、そんなにきっぱり言わなくても。いい案だと思ったのに)
自信がしぼんでいくのを感じる。
「そうでもないんじゃないですか?」
黙って聞いていたヘンリーが口を挟んだ。ふたりはヘンリーに目を向ける。
「ヘンリー、余計なことを言うな」
ヨアンが釘を刺すが、ヘンリーは飄々と自分の意見を述べる。
「確かに魔法陣の修復はヨアン様しかできないかもしれませんが、調査に時間がかかっている。だから放置されていたわけでしょう?」
(魔法陣の修復? そんな高度なことを……でも、調査なら私にもできるんじゃないかしら)
ローレッタは身を乗り出し、ふたりのやり取りに耳を傾けた。
「それでも患者に手伝わせるつもりはない」
「いいじゃないですか。ローレッタ様は早く治療を再開したいし、そのためにはヨアン様の仕事を減らす必要があります。一番時間のかかる調査を任せれば、空いた時間で治療もできるでしょう」
調査ならできそうだと自信を取り戻し、満面の笑みを浮かべる。
「手伝うわ! 調べ物は得意なの!」
アークライト公爵家の次期当主としての経験が自信となっていた。そう言うと、ヨアンは苦々しい表情を浮かべる。
「なんでそうなる……」
「ヨアン様が抱えている仕事の中で一番厄介なのは魔法陣の修復です。上位魔法陣を担当しているので、とにかく手間がかかるんですよ」
ヘンリーはぺらぺらと説明を始め、ヨアンは何度も口を挟もうとしたが阻まれた。
(ヘンリーは私にこの仕事をさせたいんだわ。単に治療時間を作るためじゃない)
仕事内容を聞けば、魔法を学んだことのないローレッタには難しいことがすぐわかる。ちらりとヨアンを見ると、腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔だった。
「でも、魔法陣の修復、知識が必要でしょう? 私にできるかしら?」
無理なことは無理と素直に伝える。
「ところが! 分業すれば問題ないんですよ!」
「ヘンリー、ちょっと待て」
分業という言葉にヨアンが慌てて口を挟む。
「分業?」
「確かに魔法陣の修復は難しい。でも、一番の問題は欠けた魔法陣の文字を探すこと。まるでパズルのように、失われた言葉を見つける作業です」
魔法陣を作り動かすのは魔法の知識が必要だが、消えかけた文字を探すだけなら最低限で済む。
「つまり、消えた文字を探すのに時間がかかるのね」
「その通り! この調査には時間も体力もすごく使うんです!」
「――それはヘンリー、お前の仕事だろ」
ヨアンがそう指摘すると、ヘンリーは鋭く睨み返した。
「ヨアン様がいつまでも放置しているから、僕に回ってきているんです! 僕だって、他の仕事を抱えているんですからね!」
「それは……すまない」
「それにですよ、ローレッタ様のご厚意、無駄にするのはどうかと!」
ヨアンがため息を漏らした。ローレッタはそんなふたりのやり取りを見て、心を決めた。
「それに、ローレッタ様が魔法を学べば、できることがもっと増えます!」
だがヨアンは学者らしい冷静な視点で反論した。
「ローレッタ嬢は魔力が欠乏しているんだ。そもそも魔力が足りない。まずは治療が先だ」
ヨアンはよほどローレッタに手伝ってほしくないのだろう。ヘンリーが言葉を尽くしても、きっとヨアンは頷かない。
そう諦めかけていた時、ヨアンがローレッタの方を見た。
「……だが、確かに人手が足りていないのも事実だ。一度試してみて、無理ならその時に言ってくれ」
「いいの?」
「いいも悪いもない。お前たちは、なにがなんでも捻じ込もうとするじゃないか」
ローレッタの真意を見抜かれ、苦笑がこぼれる。
「ただし、準備が必要だ。そうだな……三日後の午後、ここへ来てほしい。ヘンリー、ローレッタ嬢の席を用意してくれ。それから必要な文具も」
ヨアンはあれこれとヘンリーに指示を出す。その様子を見て、ローレッタは本当に手伝わせてくれるのだと実感した。
「ヨアン様、ありがとう!」
無事に治療再開の許可を勝ち取ったローレッタは、心からの笑みを浮かべた。
小さな一歩でも、自分の意志で踏み出せたことが、なにより嬉しかった。
◇
ローレッタがご機嫌でヨアンの研究室を出た後、ヘンリーは茶器を片付けながらヨアンに話しかけた。
「よかったですね、婚約破棄して」
「よくない。あのクズのせいで、彼女は泣いたんだぞ」
ヨアンは不機嫌さを隠さずに答えたが、ヘンリーは気にすることなくニマニマと笑った。
「情事の最中に踏み込んだのは確かにかわいそうでしたけど、そのおかげで今までの情まで全部吹き飛ばせたんじゃないですか?」
「……だからといって、すぐに他の男に目を向けるとは思えない」
「えー。それなのに、俺を頼ってくれていいなんて言っていたんですか? だいぶ戸惑っていましたよ?」
ヘンリーの指摘に、ヨアンは唇を曲げる。
「仕方がない。そう思っている」
「ヨアン様がローレッタ様に惹かれたのは、随分前のことですからねぇ。あ、暴走だけはやめてくださいよね」
すっかり自分の気持ちを見透かされているのを知って、ヨアンは否定しなかった。代わりに自信満々に言い放つ。
「惹かれないなんて、無理だ。彼女が自分で立とうとする姿を見ると、どうしても守りたくなる」
ヨアンがローレッタと出会ったのは一年前。彼女は死にかけた状態でここに来た。
命が尽きかけていたのに、決して心は折れず、辛い治療にもひと言も弱音を吐かなかった。それが、婚約者の男のためという理由なのは納得できないが、彼女の輝きを否定する理由にはならなかった。
「馬鹿な男だ。彼女を手放すなんて」
「それは同感です。ヨアン様は一度手に入れたら絶対に離しませんから」
「当然だ」
これからじっくり時間をかけて、彼女の気持ちを自分に向けさせようと、ヨアンは目を細める。ゆっくりと、まるで囲っていると感じさせないほど優しく。
「うあー、なんだかローレッタ様が気の毒になってきました」
「どういう意味だ」
「だって、ヨアン様、囲う気、満々でしょう?」
言い当てられてヨアンは笑った。
「自由にさせる意味がわからないな」
「あんまり囲いすぎると、逃げられますよ」
「心配いらない。俺の見える範囲なら、どれだけでも自由にさせるつもりだ」
その言葉を聞いたヘンリーは天井を仰いだ。
「大した執着心ですね。今まで冷たく断られてきた令嬢が聞いたら、目をむくでしょうね」
「すり寄ってくるタイプが苦手なだけだ」
「そうですけどね、まあいいです。ほどほどにしてくださいね。ローレッタ様はまだ心の傷が癒えていないんですから」
ヘンリーの忠告に、ヨアンは肩を竦めて答えた。だがその瞳は、ローレッタの姿を追いかけるように、扉の向こうを見つめていた。