療養先から戻ったら、婚約者が異母妹とキスをしていた
 約束した三日後――ついに仕事初日。
 嬉しさが勝り、ローレッタは夜明けを待たずに目を覚ましてしまった。
 もう一度寝ようとしても胸が高鳴って眠れず、仕方なく身支度を始めたのだが、それさえも楽しくて仕方がない。

(今日から仕事よ! 楽しみだわ)

 ローレッタは、一刻も早く研究室に行きたかった。だが、約束の時間は昼過ぎ。
 ソファに座り、本を広げ、ちらちらと時計を確認する。なかなか時間が進まない。
 約束の時間まで二時間を切ったところで、ソファから立ち上がった。

「もう行ってもいいわよね」
「いけません。早すぎます」

 リズが落ち着かないローレッタをそう宥める。

「先触れを出しておけば、問題ないでしょう」

 リズの注意を聞かず、ローレッタはヨアンの執務室を訪れた。
 扉を開けるやいなや、元気よく挨拶する。

「ごきげんよう、仕事をしに来ました!」
「随分と早いな」

 そう言いながらも、ヨアンの手にはすでに一通の先触れがあった。ヨアンはちらりと時計を確認すると、すぐに立ち上がる。

「今日は出かけよう」
 唐突なヨアンの言葉に、ローレッタは思わず目を見開いた。

「……出かける?」

 普段のヨアンは研究に没頭しており、外出どころかプライベートの時間すら持とうとしない。そんな彼が自ら誘ってくるなんて、ローレッタにとっては驚き以外のなにものでもなかった。

「ああ、熱も下がったばかりだ。外で風にでも当たれば、少しは回復も早くなるかもしれない」

 やや不自然に付け加えたその理由で、ピンときた。
 これは、ヨアンなりの優しさなのだ。冷たく見える態度の裏に、彼の不器用な思いやりが込められていることを、ローレッタは知っている。
 ローレッタはふっと笑って尋ねた。

「いい気分転換にはなるかも。それで、どこに行くの?」

 しかし、ヨアンは言葉に詰まり、沈黙した。行き先をまだ考えていなかったようだ。そして次の瞬間、視線を迷いなくヘンリーに向ける。

「……どこがいいんだ?」
「ヨアン様、こういう時はスイーツですよ! 甘いもので癒やされるんです!」
「スイーツ?」

 ヨアンが訝しげに繰り返すと、ヘンリーは呆れたように天を仰いだ。

(もしかして、スイーツが苦手なのかしら……)

 ローレッタが心配になったその時、ヘンリーはなおも強気に推す。

「受付のお姉さんが、近くのフルーツタルト専門店を褒めてました! ローレッタ様もスイーツ、お好きでしょう?」

 視線を向けられ、咄嗟に頷く。

「好きよ。受付のお姉さんのお勧めなら、間違いないわね」
「ほら、決まりです! おふたりで美味しいタルトを食べに行ってください。そして、ぜひ僕にお土産を!」
「……わかった、そうしよう」

 ヨアンは小さく頷き、ローレッタに手を差し出した。
 

 ローレッタは、彼と並び、足取り軽く外へと向かった。まだ少し疲れやすい体でも、心は弾んでいた。
 街を歩けば、通り過ぎる人々の活気や、店先に並ぶ色とりどりの品々が目に飛び込んでくる。目に入るもの、すべてが楽しく見え、自然と頬がほころんだ。
 ほどなくして、目的のカフェに到着した。予想通り、店内は女性客でにぎわっている。

「うわ……女性ばかりだわ」
「そうだな」

 思わず呟くほど、女性が多かった。
 だが、彼はまったく気にする様子もなく、いつも通り淡々とした所作で、ローレッタの手を取った。その手は大きく、思いのほか男らしくて、ローレッタの胸が高鳴った。
 普段はどこか近寄りがたく、無愛想に見えるヨアンが、自然と手を引いて歩き出す。周囲の視線など気にすることもなく――まるで自分を特別な令嬢として扱うかのように。

 ふたりが足を踏み入れた瞬間、店内の空気が明らかに変わった。
 ざわ……と、見えない波が広がるかのように、周囲の視線が一斉にヨアンに注がれた。そして驚きと羨望と、それからほんの少しの敵意が混じった、女性たちの視線がローレッタに向けられる。
 だが、そんな視線など気にならないのか、ヨアンはローレッタの手をしっかりと引き、奥の衝立で仕切られた静かな席へと導いていく。

 ローレッタはそっと彼を見上げる。
 白いシャツに、ラフなジャケット。飾り気のない服装なのに、どこか洗練されて見えるのは、彼の落ち着いた所作のせいだろうか。そして、今日のヨアンには、いつもの冷たさや堅さが不思議と感じられない。

(今日のヨアン様、確かにすごくカッコいいもの。誰だって目を奪われてしまうわ)

 ローレッタは思わず心の中で苦笑したが、すぐに気分を切り替える。せっかくの楽しい時間をつまらないことで台無しにしたくなかった。

「どうした?」

 不意に声をかけられ、ローレッタはハッと顔を上げ、言い繕う。

「あ、いえ。女性ばかりだから、ヨアン様が居心地悪いんじゃないかと思って」
「確かに女性が多いが、ここは仕切りもあるし、落ち着けるだろう」

 ヨアンはまるで気にしていなかった。そしてすぐに、店員を呼び、フルーツタルトと紅茶のセット、そして珈琲を注文する。

「ヨアン様は、珈琲だけでいいの?」
「ああ。甘いものはあまり好まない。珈琲だけで十分だ」
「……今度は、ヨアン様も楽しめるお店に行きたいわ」

 ひとりだけ満喫するのが申し訳なくて、ローレッタは眉をひそめた。だが、その言葉にヨアンは静かに微笑んだ。

「気にしなくていい。君が楽しめれば、それで十分だ」

 その優しさに、胸が熱くなった。

「ありがとう、ヨアン様」

 ローレッタの感謝の言葉に、ヨアンはわずかに目を見開き、そしてほんの少しだけ微笑んだ。滅多に見せないその笑顔に、ローレッタは胸がドキリとする。

(滅多に笑わないから……笑顔の破壊力がすごい。ついうっかり勘違いしてしまいそう)

 理知的で冷静な印象ばかりだったヨアンが、今は少しだけ、普通の貴族男性のように見えた。

「そういえば、アークライト公爵家はどうしているんだ?」

 ふと、ヨアンが口を開いた。

「父に任せられないから、今は国に管理をお願いしてるわ」

 淡々と、けれどどこか寂しさの滲む口調で語るローレッタに、ヨアンは静かに頷いた。

「それなら、しばらくは治療に集中できるな」

 そうして他愛ない会話を続けるうちに、注文していた品が運ばれてきた。
 テーブルに並べられたのは、今日のおすすめ――大ぶりのいちごとブルーベリーが贅沢にあしらわれたタルトに、香り高い紅茶。
 ヨアンの前には、シンプルなブラックの珈琲が置かれる。

「いただきます!」

 ぱっと顔を輝かせながら、ローレッタはフォークを手に取る。
 タルトに差し込むと、バターの香りが立った。口に運ぶと、その美味しさに目を見開いた。

「美味しい、しあわせ……」

 さくさくと香ばしいタルト生地に、甘さ控えめのカスタード、そして新鮮な果実の酸味が絶妙に重なり合っている。
 タルトを口に入れるたびに独り言を呟き、フォークが止まらなかった。

「このいちご、すごく甘い。しかも、生地が……さくさく」

 口いっぱいに広がる幸福感に、紅茶の渋みが優しく寄り添う。ローレッタの顔が、自然とほころんだ。
 タルトを食べ終え、紅茶の最後のひと口を味わったローレッタが、満ち足りた笑みを浮かべると、ヨアンが静かに言った。

「よほど美味しかったんだな。君、幸せそうだ」

 その言葉にローレッタはハッとし、夢中で食べていた自分を思い返して、顔を赤らめた。

「こういうカフェ、初めてなの。つい夢中になってしまって、恥ずかしい」
「初めて?」
「ええ。こんな雰囲気の店でスイーツを味わうの、ちょっとした憧れだったのよ」

 そう答えながら、自分が憧れていたことに気付いて、驚いた。

(……私、ジャスタス様にはあまり大切にされていなかったのかも。ふたりで、ゆっくりしたこともなかったわね)

 憧れだと告げたローレッタに、ヨアンは一瞬表情を曇らせた。しかし、それもすぐに消え、落ち着いた声で言った。

「そうか。じゃあ……また今度も、一緒に来よう」
「……え?」

 ローレッタは驚きに目を丸くした。

「本当に?」
「ああ。君がそれで幸せになれるなら、いくらでも付き合おう」

 それは、ごく自然な口調だった。あまりにも当たり前のように言われて、ローレッタの胸から先ほどの寂しさは消えていた。
 やがて、会話が一段落すると、ヨアンが少し思案するように珈琲を口に運び、ふと切り出した。

「ところで、ローレッタ嬢。君は将来のこと、どう考えている?」
「将来……?」

 意外な問いに、ローレッタは少しだけ目を見開いた。

「別に深い意味はない。難しく考えなくていい。ただ……君には、色々と家への責任があるだろう?」

 その言葉に、ローレッタは一瞬、戸惑ったように目の前のヨアンを見つめる。
 信頼できる人。そう思える存在。でも、ヨアンにとって自分は、死にかけた患者のひとりに過ぎない。

「どうしてそこまで?」

 つい、そんな問いが口からこぼれた。ヨアンはわずかに目を伏せ、静かに答える。

「俺も、どうしてこんなに君のことが気にかかるのかと思っていた。去年、死にかけていた君を生かしたのは俺だ。助けるのも役目だと、そう思っている」

 淡々と告げられたその言葉に、ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。気にかけてもらっていることが嬉しくて、思わず小さく笑ってしまう。

「そうね。まだあまり考えていないけれど、今は治療が最優先。それまでは全部、後回しにするつもり」
「後回しか」

 ヨアンはふっと口元を緩めた。

「だって、面倒なことばかり残っているの。家のことも、元婚約者のことも。病気が治ってからじゃないと、なにも始められない」
「確かにな。病気のままでは、動けないからな」
「そうなの。だから、先生――治療、最優先でお願いね?」

 ローレッタは、悪戯っぽい笑みを見せた。
 会話にひと区切りつくと、ふたりは席を立ち、カフェを後にした。

「せっかくだから少し歩かない?」
「ああ、いいぞ」

 午後の柔らかな陽射しの下、ふたりは並んで歩いた。
 ローレッタはヨアンの腕にそっと手を添えながら、きょろきょろと辺りを見回す。
 この国に来てからというもの、外出といえば治療のためばかり。こんな風に街を歩くのは初めてで、見るものすべてが新鮮だった。
 色とりどりの店先、にぎわう通りの空気、香ばしいパンの香り――どれもまるで異国の絵本の中に迷い込んだかのようで、ローレッタの胸が弾んだ。

 ふと、視線がある店の前で止まった。
 それは、リボンや髪飾り、小物などを扱うかわいらしい店だった。
 さりげなく並べられた品々の中で、ローレッタの目を惹いたのは、小さな宝石をいくつも連ねた、繊細なデザインのブレスレット。星の欠片を編んだようなそれは、可憐で、眺めているだけで心が浮き立つ。

(あ、かわいい)

 思わず足が止まる。
 もちろん、社交界の集まりに着けていくような高価なものではない。けれど日常の中でふと手首に光るだけで、気分が変わりそうな――そんな魅力があった。すでに宝飾品はいくつも持っているのに、こんなにも素直に「欲しい」と思ったのは、久しぶりだった。

「これが欲しいのか?」

 隣で立ち止まったヨアンが、彼女の視線の先を辿って尋ねる。

「すごく好き」

 自然と、本音がこぼれた。欲しいと願うこと自体、少し恥ずかしい。ヨアンにこんな小さな願いを口にするのは、なんだかくすぐったい気持ちになる。

「そうか」

 ヨアンは小さく頷くと、迷いなく店主を呼んだ。

「これをもらおう」
「えっ……!」

 ローレッタは驚きの声をあげた。まさか買ってくれるとは思わず、慌てて手を振る。

「あ、自分で買うわ!」

 けれどその声は、彼の耳には届いていないかのようだった。ヨアンは静かに店主に合図を送り、品を受け取ると、ローレッタの左手を取った。そして、そのブレスレットをなんのためらいもなく、そっと嵌める。

「よく似合っている」

 そのひと言に、ローレッタの心臓が跳ねる。

「ありがとう」

 慣れない褒め言葉に、頬が熱くなる。
 ヨアンはなにも言わずに軽く頷き、そのまま再び歩き出す。変わらぬ背中に、ローレッタはそっと微笑む。

(これ、大切にしよう)

 宝石のようにきらめく感情を胸に抱えながら、彼の後ろ姿を追いかける。その足取りは、まるで初めて宝物を見つけたかのように、軽やかだった。

 屋敷に戻ると、ローレッタはすぐさま自室に引きこもった。
 行儀など気にせず、ベッドにぱたりと身を投げる。そして、ブレスレットを嵌めた左手をそっと持ち上げ、目の高さにかざした。
 色とりどりの小さな宝石たちは、部屋の柔らかな灯りを受けてきらきらと輝き、ひとつひとつが生きているかのように瞬いている。その輝きに見とれながら、ふと胸が締めつけられるような気持ちになる。

「……本当に、素敵」

 そう呟いた声は、どこか切なさを帯びていた。
 カフェで食べた甘いタルト、ヨアンの横顔、ふとした会話。そして、このブレスレット。
 なにげないひと時の中に、こんなにもたくさんの幸福が詰まっていた。

(ヨアン様って、きっと自然にしているのよね)

 彼にとっては、きっとささやかな気遣いのひとつ。
 けれどローレッタは、生まれて初めて、「女性」として丁寧に扱われたような気がした。そして、過去にジャスタスに受けた形式的な扱いも思い出す。

「ヨアン様なら、きっと婚約者を大切にするんだろうな……」

 聞いたことはないけれど、今のところ婚約者がいる様子はない。研究に没頭しすぎて結婚を後回しにしている――そんな噂もある。けれど、彼の静かな気遣いや、ふとした優しさに触れるたびに、この人なら、家族を大切にするんだろうなと、自然と思えてしまう。

(ヨアン様の振る舞いが普通だとしたら、私……ずっと大切にされてなかったのね)

 もしあの日病に倒れていなければ、自分は彼の本質に気付かないまま、都合よく使われていたかもしれない。
 でも、気付けたことはむしろ救い。
 これからは、自分を大切にしてくれる人を選ぼう、そう決めた。

「うん、思い出しても、もうつらくない」

 そう言って、肩の力をふっと抜く。冷静に、ありのままに受け止める。そして、心の奥で小さく、けれど確かに灯る想いを抱きしめた。

「――私に相応しい居場所を見つける。それが、これからの目標」

 願うように、祈るように。
 その瞬間、脳裏に浮かんだのは――カフェでふと見せた、ヨアンの微笑だった。
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