療養先から戻ったら、婚約者が異母妹とキスをしていた
 オリヴィアがローレッタに心を奪われたのは、初めて王都にあるアークライト公爵家を訪れた日のことだった。

 彼女の目に焼きついたのは、あの瞬間に現れた〝姉〟の圧倒的な存在感だった。
 それまでのオリヴィアは、母ナターシャとともに、何不自由ない暮らしを送っていた。父フレディが訪れるたびにたっぷりと愛情を注がれ、彼女もその愛を素直に受け取り、穏やかに育った。

 平民としては裕福どころか贅沢な部類に入り、周囲からも羨望の眼差しを向けられていた。母は働かず、日々は観劇に費やされ、オリヴィアにはいくつもの習い事が与えられた。
 そんな生活を、オリヴィアは疑うことなく〝上流〟だと信じていた。自分の美しさと才能に自信を持ち、出かければ人々の視線を集める。その生活に、なんの不満もなかった。

 だが、公爵家の門をくぐった瞬間、それまでの世界がいかに小さなものだったのか、思い知らされる。
 初めて足を踏み入れたその屋敷は、まるで異世界だった。

 広大な庭、果てしない廊下、鏡のように磨かれた床。並ぶ調度品はどれも一級品で、光を帯びたような飴色が眩しく感じられた。
 この場所では、自分の知る〝裕福さ〟など、たかが知れていた。そう、心の奥で痛感した。

「ふたりとも、こっちだ」

 呆然と立ち尽くすオリヴィアとナターシャを、フレディが案内する。三人は豪奢な廊下を進み、やがて玄関ホールへと出た。
 そして、階段の上から現れたその姿に、オリヴィアは息を呑む。

(この子が、姉のローレッタ)

 腰まで届く濃い茶髪、澄んだ琥珀の瞳。
 黒い喪服を着ていたが、地味な色合いはむしろ彼女の洗練された美しさを引き立てていた。凛とした背筋、迷いのない眼差し。

 一歳しか違わないのに、特別な存在のようにそこに立っていた。
 その瞬間、オリヴィアの心に芽生えたのは、憧れと――深い劣等感だった。
 どれだけ着飾り、愛されても、この人には敵わない。自分がこれまで手にしてきたものが、一気に色褪せて見えた。
 ローレッタは階段の途中で足を止め、静かに声を発した。

「お父様。お客様かしら?」
「ローレッタ。今日からこのふたりがお前の家族になるんだ」
「家族……?」

 その言葉に、ローレッタの表情が一瞬だけ消える。次の瞬間、冷ややかな笑みを浮かべ、視線を三人へ向けた。
 そして、オリヴィアのところで止まる。

「なるほど。再婚されるのですね。でしたら、用意してある別邸へどうぞ」
「別邸だと!?」

 フレディの語気が強まる。しかし、ローレッタは動じなかった。

「この本邸は、亡き母が所有していたものです。婿であるお父様が再婚される場合は、別邸を使用する契約になっていると聞いています」

 冷静な口調に、オリヴィアは思わずナターシャの腕を掴んだ。ナターシャは娘の手を優しく撫でる。

「詳細は家令にお聞きください。不服であれば、弁護士にどうぞ」

 そう言ってローレッタは視線を逸らし、オリヴィアを軽く一瞥しただけで、もう興味を失ったようだった。

(なんて冷たい人……本当に私の姉なの?)

 視線すら合わせようとしないローレッタに、オリヴィアは唇を噛みしめる。自分の存在が、あっという間に価値を失っていくような感覚に、体が震えた。

「あなた……」

 ナターシャが不安げにフレディに目を向ける。彼は眉をひそめたものの、すぐに優しく笑って言った。

「母親を亡くしたばかりだからな。気難しくなっているんだろう。さあ、今日からここが君たちの家だ」
「本当に?」

 オリヴィアの顔が一気に輝く。

「夢みたい! お姫様みたいに暮らせるなんて!」

 フレディは満足げに頷き、娘の頭を撫でる。

「やりたいことはなんでも言いなさい。全部、叶えてやる」

 だがその時、場の空気を切り裂くように、家令の声が響いた。

「旦那様。それからお連れの方々。この本邸はアークライト家直轄のものです。別邸へお移りください」
「……なんだと?」
「ご不満でしたら、再婚はご実家に戻ってからと、前夫人より伺っております」

 一気に場が凍りつく。
 オリヴィアは家令の無機質な声に目を見開いた。ナターシャは空気の重さに耐えきれず、フレディの腕を引く。

「フレディ、私たちはあなたと一緒ならどこでも構わないわ。別邸で十分よ」
「だが」
「事を荒立てたくはないの」
「え、じゃあ……ここで暮らせないの? 嫌よ、私はこのお屋敷に住みたい!」

 ローレッタの言葉通りに出ていこうとするナターシャの発言に、オリヴィアは反発した。ナターシャは困ったようにオリヴィアをたしなめる。

「オリヴィア、わがままを言ってはダメ」
「でも……!」

 母の言葉を拒みたい気持ちが、胸の奥で暴れる。ここにいる資格があると、オリヴィアは信じていた。
 ローレッタに視線を送るが、彼女はまったく関心を向けようとしない。

(お願い、お姉様……)

 思わず駆け出した。

「お姉様、話を聞いて!」

 ローレッタに手を伸ばそうとしたその瞬間、そばにいた護衛騎士が一歩前に出る。

「……え?」
「近付くな」

 低く、鋭い声。
 そのひと言に、オリヴィアの体が硬直する。ナターシャが慌てて娘を抱きしめ、庇うように隠した。

「おい。私がいなければ、お前は当主になれないはずだぞ。そんな態度でいいのか?」

 フレディが苛立ちに満ちた声でローレッタを威嚇する。だが、ローレッタは無表情のまま彼を見返した。

「ええ、構いません。次の当主は決まっています。お父様がいなくても、問題ありません」
「なんだと?」
「お父様は婿養子です。この家の継承に関わることは、できません」

 ローレッタの静かな口調が、フレディの怒りに火をつけた。

「少し仕置きが必要なようだな!」
「そういう話ではないのですけど……縁を切ってもらって構いません。どうなさいますか?」

 その言葉に、フレディは顔を真っ赤にし、拳を振り上げた。

「フレディ、やめて! 暴力はダメよ!」

 ナターシャが慌ててその腕を止める。

「……くそっ! 行くぞ!」
「えっ、お父様!」

 フレディが踵を返し、ナターシャと共に屋敷を出ていく。オリヴィアは慌ててその後を追った。
 振り返ると、ローレッタが家令と何事かを話しているのが見えた。

(この家の主は……あの人だ)

 惨めさが胸を締めつける。
 追い出されたような自分と、あの邸で王女のように立つ姉。

(悔しい……どうして、お姉様だけが……)

 自分もお姫様のはずだった。それなのに、なぜ。
 怒りとも悲しみともつかない感情が、ローレッタを屈服させたいという仄暗い気持ちへと変わっていくのは一瞬だった。

「……いつか、全部、私のものにする。お姉様なんかに、負けたりしない」

 その言葉は、誰にも届くことなく、虚空に消えた。

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