療養先から戻ったら、婚約者が異母妹とキスをしていた
ローレッタが城に到着すると、すぐに騎士の案内で応接室へと通された。その部屋は、国王が私的な面会に使う場所で、通常は王族や極めて信頼の置ける者しか立ち入れない。
すでに国王が室内で待っていた。
六十を過ぎても衰えぬ威厳と、若さすら感じさせる風貌。
彼は、ローレッタの祖父の兄――実質的には祖父代わりとして、幼い頃からローレッタを見守ってきた存在だった。
「ご挨拶申し上げます」
ローレッタが丁寧に頭を下げると、国王は柔らかな笑みを向ける。
「そう畏まるな。私はお前の祖父のつもりでいるのだから」
「ありがとうございます、陛下」
微笑みながらソファに腰を下ろすと、長年王に仕える侍従が静かにお茶を差し出した。洗練された手つきで注がれた香り高い紅茶は、緊張の糸を少しだけほぐしてくれる。
「どうだ? お前の祖父も好んでいた茶だ」
「とても美味しいです」
香りと共に、昨日から張り詰めていた心がわずかにほどけていく。静かな時間の中、国王が穏やかに口を開いた。
「治療が順調だと聞いているが」
「はい。日常生活に支障がない程度には。これからも治療を続ける予定です」
「そうか。だが無理をするな。必要なことは、なんでも言え」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。この人は、自分を「家」ではなく「個人」として見てくれる――そんな安心感があった。
「ありがとうございます。では、ひとつ、お願いがございます」
「うむ。申してみよ」
「ジャスタス・フィンレー伯爵子息との婚約を、破棄したく存じます」
「なんだと?」
国王の表情が一変した。ローレッタがジャスタスに心を寄せていたことを、彼は知っている。夜会で並ぶ姿も見ていた。
「お前は、ジャスタスを愛していたのではないか?」
「ええ。信頼できる人だと、そう思っていました。でも――彼は、私の異母妹と不貞を働いていたのです」
「不貞だと?」
テーブルに王の拳が落ち、重々しい音が応接室に響く。ローレッタは、昨夜の光景を思い返しながら静かに続けた。
「私が魔力症にかかったことで、いずれ死ぬと判断したのでしょう。だから、異母妹を手に入れて、新たなアークライト公爵家の婿の立場を得ようとしたようです。異母妹は、自分が公爵家を継げないことを知らないようでした」
国王は怒りに震えながらも、沈黙した。
「とても親切なことに、子どもだけは私に産ませてくださるそうです」
「……なんということだ」
テーブルが再び鳴る。だが今度は深く息を吐き、国王は自らを静める。
「よかろう。婚約破棄は即座に認める。だが、公爵家の管理はどうするつもりだ。精霊に選ばれたあの男を除けば、精霊の森の維持は難しいのではないか?」
アークライト公爵領にある森には、この世界と精霊たちの世界を繋ぐ〝門〟が存在すると伝えられ、代々結界を張って守ってきた。
精霊たちはその門を通り、人の世に風を送り、雨を呼び、作物を実らせる。
直接見ることは叶わずとも、森の中には異質な気配が満ち、人々は古くから畏敬をもって接してきた。
代々、公爵家の当主と配偶者が揃うことで、精霊の森の加護はバランスよく維持されている。
しかし、定期的に配偶者が当主を裏切ることもあり、そのたび精霊の力は減少している。
ローレッタの母も、夫の不貞によりひとりで森を守らざるを得なかった。そのため、精霊の加護は通常よりも早く弱まり、ローレッタには正確な事情が伝えられていなかった。
「彼は……すでに仮契約者としての資格を失ったと思われます」
「そうか」
国王は静かに頷いた。
ローレッタの父、フレディもまた、不貞によって精霊の力を失った男だ。血は繰り返すのか――そんな思いが、胸をよぎる。
「精霊は裏切りを嫌う。精霊の加護は減り続け、今では半分にも満たぬままだ」
ローレッタは頷くだけで口を開かない。母から何度も語られた、あまりに重たい歴史だった。
「収穫は減り、気候は乱れ、疫病も増えた。精霊の加護がこれ以上、薄れれば、国は立ち行かぬ」
「それでも、代々の当主は国のために、家を守ってきたのですね」
「お前の父も婚約者も資格を失うとは……。そろそろ、覚悟を決めねばならんのかもしれんな」
国王の言葉に、ローレッタの背筋がぞくりと震える。
「まさか……精霊の森を、閉じるおつもりですか?」
精霊の森を閉じる、それは精霊の加護を失うということ。どのような災害が起きるのか、想像するのも恐ろしい。
「精霊の加護が尽きれば国は揺らぐ。……いずれにせよ、精霊との繋がりが国を蝕むというのなら、決断をせねばならぬ」
豊穣の根源――精霊の森との繋がりを断つ、そんな決断を迫られるとは。
「もうすぐ私は成人します。正式に継承すれば、正規の契約者として精霊の力を扱えるようになります。今のように、無理に力を引き出して命を削る必要はなくなるはずです」
本来、成人前の当主は「仮の契約者」に過ぎず、精霊の力として扱える魔力はごくわずかしかない。
ローレッタが魔力症になるほど無理をしたのは、母を成人前に亡くし、仮の力で母と同じ役目を果たそうとしたからだ。
「だからといって、無茶をするのは違う。お前の身はひとつしかない」
「それでも、それが私の役目です。やってみなければ、なにもわかりません」
しばしの沈黙の後、国王は小さく笑った。
「……そうだな」
だが、ローレッタの胸の内は晴れない。
魔力症を抱えた身で、果たして森を守る結界を維持できるのか。失敗すれば、天候不順や作物の不作、疫病すら引き起こしかねない。
その重圧に、息が詰まりそうだった。
「いずれにせよ、まずは体を治すのが先だ。ローレッタ、しばらくは療養に専念するがいい」
「ありがとうございます」
「家の管理は国から人を派遣する。お前の父にも手出しはさせない」
「――できれば、前カヴァル侯爵夫人も入れないようにしてください」
図々しいと思いながらも、ローレッタは口にした。祖母とはいえ、彼女もまた厄介な存在だった。
「ああ、あの女か。あの執着は異常だったな。手配しておこう」
国王は苦笑を漏らした。
(これで、少しは……家の心配をしなくて済む)
ローレッタは静かにカップを置いた。けれど、その手のひらには、冷たい汗が滲んでいた。
安心感と同時に、押し寄せる責任の重さ――。
自分の判断が正しいのか、自信が持てずに心の奥が震えた。
すでに国王が室内で待っていた。
六十を過ぎても衰えぬ威厳と、若さすら感じさせる風貌。
彼は、ローレッタの祖父の兄――実質的には祖父代わりとして、幼い頃からローレッタを見守ってきた存在だった。
「ご挨拶申し上げます」
ローレッタが丁寧に頭を下げると、国王は柔らかな笑みを向ける。
「そう畏まるな。私はお前の祖父のつもりでいるのだから」
「ありがとうございます、陛下」
微笑みながらソファに腰を下ろすと、長年王に仕える侍従が静かにお茶を差し出した。洗練された手つきで注がれた香り高い紅茶は、緊張の糸を少しだけほぐしてくれる。
「どうだ? お前の祖父も好んでいた茶だ」
「とても美味しいです」
香りと共に、昨日から張り詰めていた心がわずかにほどけていく。静かな時間の中、国王が穏やかに口を開いた。
「治療が順調だと聞いているが」
「はい。日常生活に支障がない程度には。これからも治療を続ける予定です」
「そうか。だが無理をするな。必要なことは、なんでも言え」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。この人は、自分を「家」ではなく「個人」として見てくれる――そんな安心感があった。
「ありがとうございます。では、ひとつ、お願いがございます」
「うむ。申してみよ」
「ジャスタス・フィンレー伯爵子息との婚約を、破棄したく存じます」
「なんだと?」
国王の表情が一変した。ローレッタがジャスタスに心を寄せていたことを、彼は知っている。夜会で並ぶ姿も見ていた。
「お前は、ジャスタスを愛していたのではないか?」
「ええ。信頼できる人だと、そう思っていました。でも――彼は、私の異母妹と不貞を働いていたのです」
「不貞だと?」
テーブルに王の拳が落ち、重々しい音が応接室に響く。ローレッタは、昨夜の光景を思い返しながら静かに続けた。
「私が魔力症にかかったことで、いずれ死ぬと判断したのでしょう。だから、異母妹を手に入れて、新たなアークライト公爵家の婿の立場を得ようとしたようです。異母妹は、自分が公爵家を継げないことを知らないようでした」
国王は怒りに震えながらも、沈黙した。
「とても親切なことに、子どもだけは私に産ませてくださるそうです」
「……なんということだ」
テーブルが再び鳴る。だが今度は深く息を吐き、国王は自らを静める。
「よかろう。婚約破棄は即座に認める。だが、公爵家の管理はどうするつもりだ。精霊に選ばれたあの男を除けば、精霊の森の維持は難しいのではないか?」
アークライト公爵領にある森には、この世界と精霊たちの世界を繋ぐ〝門〟が存在すると伝えられ、代々結界を張って守ってきた。
精霊たちはその門を通り、人の世に風を送り、雨を呼び、作物を実らせる。
直接見ることは叶わずとも、森の中には異質な気配が満ち、人々は古くから畏敬をもって接してきた。
代々、公爵家の当主と配偶者が揃うことで、精霊の森の加護はバランスよく維持されている。
しかし、定期的に配偶者が当主を裏切ることもあり、そのたび精霊の力は減少している。
ローレッタの母も、夫の不貞によりひとりで森を守らざるを得なかった。そのため、精霊の加護は通常よりも早く弱まり、ローレッタには正確な事情が伝えられていなかった。
「彼は……すでに仮契約者としての資格を失ったと思われます」
「そうか」
国王は静かに頷いた。
ローレッタの父、フレディもまた、不貞によって精霊の力を失った男だ。血は繰り返すのか――そんな思いが、胸をよぎる。
「精霊は裏切りを嫌う。精霊の加護は減り続け、今では半分にも満たぬままだ」
ローレッタは頷くだけで口を開かない。母から何度も語られた、あまりに重たい歴史だった。
「収穫は減り、気候は乱れ、疫病も増えた。精霊の加護がこれ以上、薄れれば、国は立ち行かぬ」
「それでも、代々の当主は国のために、家を守ってきたのですね」
「お前の父も婚約者も資格を失うとは……。そろそろ、覚悟を決めねばならんのかもしれんな」
国王の言葉に、ローレッタの背筋がぞくりと震える。
「まさか……精霊の森を、閉じるおつもりですか?」
精霊の森を閉じる、それは精霊の加護を失うということ。どのような災害が起きるのか、想像するのも恐ろしい。
「精霊の加護が尽きれば国は揺らぐ。……いずれにせよ、精霊との繋がりが国を蝕むというのなら、決断をせねばならぬ」
豊穣の根源――精霊の森との繋がりを断つ、そんな決断を迫られるとは。
「もうすぐ私は成人します。正式に継承すれば、正規の契約者として精霊の力を扱えるようになります。今のように、無理に力を引き出して命を削る必要はなくなるはずです」
本来、成人前の当主は「仮の契約者」に過ぎず、精霊の力として扱える魔力はごくわずかしかない。
ローレッタが魔力症になるほど無理をしたのは、母を成人前に亡くし、仮の力で母と同じ役目を果たそうとしたからだ。
「だからといって、無茶をするのは違う。お前の身はひとつしかない」
「それでも、それが私の役目です。やってみなければ、なにもわかりません」
しばしの沈黙の後、国王は小さく笑った。
「……そうだな」
だが、ローレッタの胸の内は晴れない。
魔力症を抱えた身で、果たして森を守る結界を維持できるのか。失敗すれば、天候不順や作物の不作、疫病すら引き起こしかねない。
その重圧に、息が詰まりそうだった。
「いずれにせよ、まずは体を治すのが先だ。ローレッタ、しばらくは療養に専念するがいい」
「ありがとうございます」
「家の管理は国から人を派遣する。お前の父にも手出しはさせない」
「――できれば、前カヴァル侯爵夫人も入れないようにしてください」
図々しいと思いながらも、ローレッタは口にした。祖母とはいえ、彼女もまた厄介な存在だった。
「ああ、あの女か。あの執着は異常だったな。手配しておこう」
国王は苦笑を漏らした。
(これで、少しは……家の心配をしなくて済む)
ローレッタは静かにカップを置いた。けれど、その手のひらには、冷たい汗が滲んでいた。
安心感と同時に、押し寄せる責任の重さ――。
自分の判断が正しいのか、自信が持てずに心の奥が震えた。