八年執着されましたが、幸せです ~傷心のホテリエですが、イケメン御曹司と契約恋人になりました~
 気がつけば私はマンションのリビングにいて、ソファに座ってぼんやりとしていた。

(本来ならここには彼女……グレースさんがいて、暁人さんと一緒に暮らしていたはずなんだ)

 とうとう、我慢しきれず涙が零れ、頬を伝っていく。

(……私、……暁人さんの事が好きだったんだ)

 彼に抱かれて喜んでいたし、好意を抱いていたのは自覚していた。

 でも暁人さんにそれを伝えるつもりはなく、〝本当の相手〟が現れるまでは都合のいい恋人役に徹そうと思っていたけれど――。

 どうやら私は、自分が考えていた以上に暁人さんに惚れ込んでいたらしい。

 こんな残酷な形で、自分の気持ちを再確認するとは思っていなかった。

 あの優しい眼差しも、ときどき何かを訴えるような真剣な目も、肌を辿った温かな手も、舌も、熱い屹立も、『私のもの』と思っていた愚かな自分がいた。

 彼は全部、あます事なく彼女のものだ。

「…………っ、バカみたい……っ」

 吐き捨てるように言うものの、暁人さんを責めるなんてできない。

 彼は絶望していた私に手を差し伸べ、家族を助けてくれた大恩人だ。

 妻がいるのに浮気をしたのは落ち度があるけれど、知らなかったとはいえ受け入れてしまったのは私だ。

「…………好き……っ、――なの、……に……っ」

 涙が次から次に零れ、止まってくれない。

 私は背中を丸め、激しく嗚咽する。

 ウィルにフラれた時だってこんなに傷つかなかったし、父の葬式でもこんなに泣かなかった。

 今、私は人生で一番と言っていいほどの悲しみに打ちひしがれていた。

「……っ、暁人さんの……っ、本当の〝特別〟に、――なり、たかった……っ」

 泣いて泣いて、沢山泣いて、涙が涸れるほど泣いて――――、私は放心してリビングを見つめていた。

 感情を吐き出すと、少し冷静になった。

(もう少し経ったら暁人さんが帰ってくる。泣いてメイクがグシャグシャになってるだろうし。その前に、何事もなかったようにしないと)

 時刻は深夜前で、私は急いでバスルームに向かう。

 私はなるべく何も考えないようにメイクを落とし、バスルームに入って髪と体を洗った。

 寝る支度を整えてベッドに入ったけれど、当然、頭が興奮してなかなか寝付けない。

(明日、休みで良かった。……物件とか調べて、引っ越す準備をしよう)

 体にはまだアルコールが残っていて、体はまだ熱い。

 寝ようと試みているのに、頭の中でドッドッと心臓が鳴っているような錯覚を抱く。


 そうしているうちに、玄関の鍵が開いて暁人さんが帰宅したのが分かった。

 一瞬、「グレースさんも一緒に帰って来たんじゃ?」と思って息を潜めるけれど、聞こえるのは一人分の気配だけだ。

(奥さんは別の所に泊まるの?)

 彼に尋ねたい事は沢山あるけれど、尾行してしまった事は絶対に言えない。

 偶然見かけたとはいえ、堂々と声を掛けずつけ回したなんて、まるでストーカーだ。

 私が悶々している間も、暁人さんは自室に荷物を置くと、上のバスルームに向かったようだった。

 水音が聞こえたあと、彼がバスルームから出る音がし、ドライヤーを使う音がする。

 やがて階段を下りる足音がし、暁人さんはキッチンで飲み物を出したあと、リビングで少し寛いでいるようだった。

 私はベッドで横になったまま、暁人さんに心の中で「おやすみなさい」を言う。

(明日にでも荷物を纏めないと)

 そう思った時、私の部屋のドアが細く開いたので、慌てて目を閉じた。

 緊張して息を殺していると、暁人さんが足音を忍ばせて近づいてくるのが分かる。

 目を閉じて眠っているふりをしていると、彼はしばらくベッドの側に立ち、私を見つめているようだった。

(……何……?)

 彼の意図が分からずに戸惑っていると、頭をそっと撫でられる。

(……どうしてそんな事をするの……? 奥さんとおそろいの指輪を嵌めた手で……)

 彼の気持ちがまったく分からない、分かりたくもない私は、抵抗するようにわざと身じろぎをした。

 すると暁人さんはハッとして手を引っ込め、息を殺す。

 彼は黙って私が起きないか見守っていたけれど、しばらく経って安堵の息を吐く。

 少しして、彼はマットレスに手をつくと、私の前髪をそっとかき分け、額に唇を押しつけてくる。

「……おやすみ、芳乃。いい夢を」

 囁いたあと、暁人さんは静かに部屋を出てドアを閉めた。

 私はパチリと目を開き、暗い天井を見つめる。

(……本当に、彼が何を考えているのか分からない。奥さんと会ってきたばかりなのに、私にこんな事をするの?)

 グレースさんが浮気を許しているなんて思いたくない。

 そういう性癖の人がいるのは知っているけれど、大抵の女性は夫が自分以外の女性を家に上げていると知っただけで、激怒するはずだ。

(……暁人さんの事、嫌いになりたくない。……お願い)

 私は縋るように心の中で彼に願い、静かに涙を流す。

 そのあと、こんな状態じゃ眠れないと思っていたけれど、精神的に疲れていたのと仕事を終えて肉体的な疲労があるからか、いつの間にか眠ってしまった。



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