八年執着されましたが、幸せです ~傷心のホテリエですが、イケメン御曹司と契約恋人になりました~
「……っは……」

 顔を離し、興奮した目で見つめてくるのは私の雇用主だ。

 彼は自身の唇を舐めてブランド物のネクタイの結び目に指を掛けると、オーダーメイドのスーツのジャケットを脱いでソファの背に掛ける。

「『お帰りなさい』は言ってくれないのか?」

「おっ……、お帰り、…………なさい」

 Tシャツにデニム姿の私は、赤いエプロンをつけて料理を作っていた途中だった。

 チャイムが鳴って応対すると、この男性(ひと)――神楽坂暁人(かぐらざかあきと)さんが「ただいま」と言って家に入り、私をソファに押し倒してきたのだ。

「暁人さん、困ります。私、ご飯を作っていた途中だったのに……」

 私は二十八歳で、暁人さんは二十五歳。

 それなのに彼は私の雇用主で、億はするマンションの持ち主だ。

「ごめん。どうしても芳乃がほしくて。……美味しそうな匂いだね。今日のメニューは?」

 文句を言われて初めて、暁人さんはやっと料理に興味を示してキッチンを見る。

「この間、魚が食べたいって言ってたから、鰈の煮付けを作って、あとはきんぴらごぼうにほうれん草のお浸しです」

「ザ・和食だね。好きだよ」

 ニコッと笑うと年相応に可愛い笑顔になるので、「ずるい」と思ってしまう。

 彼は長身な上、ジムで鍛えているので立っているだけでも洗練された雰囲気があり、存在感がある。だから年齢よりずっと大人びて見えた。

 私は彼と同じ職場で勤務しているけれど、同僚や他部署の女性たちが『神楽坂さんって格好いいよね』と噂しているのを耳にしていた。

 彼と同棲しているって知られたら、どうなるんだろう……。考えるだけで怖い。

 そこまで考えたところで、ハッと料理中だったのを思い出した。

「とにかく、料理の途中なのでイチャイチャは駄目です!」

 グッと暁人さんの肩を押すと、彼は捨てられた仔犬のような目で私を見てくる。

(なんて顔をするの~!)

 百八十五センチメートル以上はある長身なのに、犬みたいに甘えっ子で困る。

 けれど私は心を鬼にして言った。

「もうそろそろご飯ですから、着替えてきてください。お風呂の用意も済んでいるので、そちらを先に済ませたいのならどうぞ」

 事務的に伝えると、彼は「分かったよ」と残念そうに言って立ち上がった。

 私は自室に向かう彼を見て少し残念な気持ちになり、そんな自分は勝手な女だと呆れる。

 勘違いしそうになるけど、暁人さんは絶対に好きになっちゃいけない人だ。

 ――なぜなら、彼の左手の薬指には、指輪が嵌まっているからだ。



**



 二十八歳のクリスマスに、NYで大失恋をした私は年明けに帰国した。

 あれほど憧れた〝世界一〟とも呼ばれる〝ゴールデン・ターナー〟だったのに、辞めてしまえば意外なほど未練がなくなった。

 キラキラとしたマンハッタンもタイムズスクエアも、もう〝いつもの景色〟ではなくなり、遠い外国の風景。

 茨城の実家でぼんやりしていると、背中やお尻に根が生えそうなくつろぎを覚えた。

(次……、どこで働こうかな)

 ボーッとしているうちに時が過ぎ、春を迎えた私は友達と梅を見るために筑波山に登ったり、家族で水戸まで梅林を見に行ったりした。

 渡米前、家族はとても心配していたけれど、応援もしてくれていた。

 けれど夢半ばに帰国したとはいえ、すぐ会える距離で暮らすと知ると、心から喜んでいた。

 自分としては逃げ帰ったようで「情けない」と思っていたので、家族の温かな気持ちが余計に沁みた。

 帰国して良かったと思える一番の理由は、ご飯が安くて美味しい事だ。

 ラーメンにお寿司、うどんに蕎麦と、あちらでは高価な日本食をカジュアルに食べられる。

 昨今物価高になっているとはいえ、アメリカで食べるよりはずっと安い。

 私は母と台所に立って料理をし、今までゆっくり覚えられなかった分、様々な家庭料理を教えてもらった。

 母の味はやはり美味しくて、子供の頃はあまり好きではなかった煮物が、とても美味しく感じた。

 いつまでも実家にいられないから、そのうち一人暮らしをした時に、なるべく自炊して過ごせるよう、今のうちに沢山レシピを習っておこう。

 父は蕎麦屋を営んでいて、地元では割と有名なお店らしく、遠くからわざわざ足を運んで食べに来る人もいた。

 私は次の仕事が始まるまでの間、父の蕎麦屋を手伝ってアルバイトをしていた。

 そのようにして日本の良さをしみじみ味わっていたけれど、平穏な日々は長く続かなかった。
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